浩浩と米代の川ひとり秋 『宇宙開』
日本海に河口を開く米代川の地にて安井浩司は、昭和十一(一九三六)年二月二十九日に誕生する。なお、昭和十一年は閏年にあたる。誕生日は毎年誰にも来るものと思うが、安井はグレゴリオ暦の方法によって四年に一度の誕生日を迎える。まさに「異彩の俳人」の誕生日である。「ひとり秋」は孤独の秋と読めるが秋をひとり占めしているとも読む。大きくうねる河口に立ち、澄んだ空と海が眼前にある醐味は格別である。安井浩司ならば万有一如というであろう。
句をなす友よ、いずれにせよその荒野の軌なき道を歩む他無いのである。
『安井浩司俳句評林全集』
朝鮮の友にささげる鶴の吸物 『霊果』
訣別の友はもしや神(かむ)今食(いまけ) 『氾人』
友よまず小川の魚を隠語とし 『汝と我』
春日上り海部の友は登校せず 『句篇』
枯野遥か縄を掘ればはや友に 『山毛欅林と創造』
清友よ「媛」と銘せる酒酌まん 『空なる芭蕉』
交響詩「巨蛇」を揮う若き友 『宇宙開』
〈友になりておなじ湊を出(いで)舟(ふね)のゆくえも知らず漕ぎ別れぬる〉、この歌は西行の歌であるが、この歌がもたらす存在のままの孤独のかたりかけが「友」の各句にも流れている。
西行心触れゆくのだ花薄荷 『氾人』
存在が感応する魂の寄り添いは孤独の相互交感を生み出し「朝鮮の友」「清友よ」の句などには索(もと)め合う友との時空を超えた交流が流れ入る。安井浩司の「友」とは仲間内の意ではない。志を同じくするもの、同行者、道づれ〈雪袴ツアラストラ参ろうか 『汝と我』〉と同位なのである。そう、三人称的なかたりかけから、個我を超え、私達が一般的に抱く友の印象は消える。友の意味は〈直心の交(まじわり)〉であり、心と心の直交は個我を超えいる。故に、一句における〈友〉は読者自身でもあるのだ。
見落せばおきなぐさも雑草に 『乾坤』
去・今・来せきれいのせわしさよ『風餐』
出雲大社巨蛇波のよぎるのみ 『山毛欅と創造』
掲句三句を正統な写生句といえばひとはいぶかしがるだろうか。なぜならば、豊口陽子の「安井浩司私論」に〈『汝と我』所収の「汝も我みえず大鋸(おが)を押し合うや」の句を、あれは純然たる写生句だと作者はいたずらっぽく笑うのである〉とある。豊口陽子は「拈華微笑(ねんげみしょう)」、安井浩司との俳句的関係性へと暗黙知を働かせる俳人である。――であるならば〈冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ『四大にあらず』〉もまた写生句とみる。冬の晴れた日、空を見やれば、透明で実体がありそうなのだが無い、その無の青の深さに身ぶるいせずにはいられない。それは「空(くう)」そのものである。冬の空に安井俳句とともに自己を「ひとつ」泛べてみてはどうだろうか。俳句表現が表わす言語の豊かさ、自然と言語の二元性を超えて我が身心に不二の感覚が生じるはずだ。安井俳句は観念的であり、形而上学的だと言われる。それは安井浩司の東洋的哲学心と詩心の高さゆえなのだが、人間の側の視点である形而上学を離れて、自己は自己であり、他己は他己であり、なおも自他を超えて言語があることを教える安井俳句。それゆえに俳句を学びつくしたいと思うのである。
夏垣に垂れる系図も蛇のまま 『風餐』
醜(しこ)の翁も芋饗祭りへ這い行くぞ 『四大にあらず』
わが庭の朝鮮ぎぼうしいつ日より 『霊果』
韓人きて音を入れれば竹震う 〃
安井の動詞使いは美しく「垂れる」「這う」などの語が、現象を表し、自然の機能の動きを表し時間を表出する。つまり、このような動詞を働かせることは、エドマンド・リーチのいう「不可視的現実を表現した可視的現象」を俳句に起こすということになろう。また「わが庭」「韓人きて」の句は我と汝の対句であり、対句であることでかたりが生じ、「我が庭」「入れれば」から主体性が消え、それは汎個性的なものとなり、古代より現代までの「地下水脈による結びつきの記憶」としての神話性「古代実存」が立ち表れる。
花曇る眼球を世へ押し出せど 『汝と我』
道元『正法眼蔵』に「自己の皮肉(ひにく)骨髄(こつづい)を脱落(とつらく)するとき桃(とう)華(か)眼睛(がんぜい)づから突(とっ)出来(しゅつらい)相(そう)見(けん)せらる」とある。自己そのものを究めれば、身心脱落する。言わば桃の花が目玉の中から突出してきてはじめて桃華に出合うことが出来ることの意といわれる。「眼睛づから突出来相見せらる」と「眼球を世に押し出せど」この合一を発見したとき、安井浩司の東洋的哲学心に触れ得た。互いに異なる物質が融け合い一体となる、無碍自在、花の自性は言語の届かないところにある。いわば不立文字。だが、「押し出せど」である。
マリア図や炎天の雪ふいに来し『空なる芭蕉』
天国を問えば叱るや永平寺 『宇宙開』
やはり永田耕衣の言う通り、俳人は悟っても悟り切れない存在なのである。
柘榴種散って四千の蟲となれ 『汝と我』
種子が因、花や実が果、土、水、太陽等々の縁(条件)。これらすべてが関わりあって生命がある。この考え方が「縁起」であり、これは仏教的哲学思想といわれる。安井の句は種が散った地に花が咲き実がなるとだけいうのではない。四千の種散り花咲き、花咲けば当然蟲も来る。この縁起のすごさである。なおも田村隆一の詩「四千の日と夜」も関わって来る。ひとつの柘榴の実は個としての一、「四千」は種子と蟲の個々の因、それに土、水、太陽があり、一つの構成要素が全体である。西洋的二元論である全体と全体以外のトポス、このような考えには到りつけない。重重無尽、あらゆる事物、事象は互いに無限の関係性をもって融合し一となる。「東アジアの詩人」安井浩司『句篇』全六巻の出立の句である。
そして、句篇最終巻『宇宙開』の句集名は後記に「俳人・志賀康の著書『山羊の虹』において、今日的状況の中で改めて抄われたものである」と記される。俳句的関係性が安井俳句の本質にある。この本質が安井俳句のかたりを開く。このかたりが読み手の自由な受け取りと応答を可能とする。それは平等な水平的関係となるのである。その上で、俳句対俳句のとらえ返しと反復が俳句の無限連続なりとなる。これが安井浩司の俳句なのである。
鷹遊ぶ夕べの空を彩(だ)みかえす 『山毛欅林と創造』
2020年12月25日金曜日
『永劫の縄梯子』出発点としての零(3) 俳句の無限連続 救仁郷由美子
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