大鍋に牛乳沸ける虚子忌かな
大鍋に牛乳を沸かしているのは、「札幌 北の虚子忌俳句大会」の会場とありますが、私には何となく高濱家であっても構わないように思えました。底知れないエネルギーを放ち続ける大虚子の忌日に牛乳を沸かしているのです。しかも大鍋でです。虚子忌がとても新鮮に感じられます。何度か読み返している中に、やはり虚子忌として異彩を放つ一句だと思えました。筑紫磐井氏の「もりソバのおつゆが足りぬ高濱家」がついつい脳裏に浮かんできたりもします。
中西夕紀さんは、第二句集『さねさし』では「写生ということを考え直してみよう」、そして第三句集『朝涼』では「よく見て、心に焼き付けてから、現実のものを遮断して心の中で昇華したものを描きたい」とあとがきにしたためておられます。第四句集『くれなゐ』では「挑戦。・・・自らも見えぬ明日の俳句を求めつづける」と大きく一歩踏み出す決意を表しておられます。さらに挑戦された句を見てみましょう。
蛇踏んで一日浮きたる身体かな
私は蛇を踏んだ経験はありませんが、川上弘美の『蛇を踏む』をふまえた一句なんでしょうか。母にすり替わっていつの間にか浸透してくる蛇は、さしずめ新型コロナの不条理な感染のようでもあり、身の置き所もありません。
百物語唇なめる舌見えて
唇を舐める語り手は白石加代子かも知れません。真っ赤な口紅に見え隠れする舌はてらてらと妖怪じみてきました。いよいよクライマックスの百話に近づいて行きます。
男客のそりと座り夏芝居
舞台上での男客の所作のようでもあり、例えば銀座「卯波」に現れる「いの一番の隅の客」のようでもあります。「のそり」が上手いなぁ。
恋数多して長生きの砧かな
宇野千代と砧とは、遠くて近い絶妙の距離感です。辺境に送られた兵士の妻が夜ごと打つ砧の音と華やかな恋多き老女の取り合わせが絶妙です。
写生のじっくりと目を据えた佳句、長年培ってきた感覚の冴えた句も見られます。
垂るる枝に離るる影や春の水
草田男の「冬の水一枝の影も欺かず」の春バージョンです。冬の水との違いがくっきりしています。春の水がより余情を誘います。
日陰から見れば物見え一茶の忌
説明でなく一茶の忌が言い得ています。
豆腐煮るうゐのおくやま来し鴨と
豆腐を煮る日常と、季節の移り行く鴨の渡りが地球的視野にまで広がります。「うゐのおくやま来し」で時間的にも奥行が生まれました。
店奥は昭和の暗さ花火買ふ
これは昭和でなければならない暗さです。火付の悪い花火です。
金魚百屑と書かれて泳ぎをり
写生の目が効いてます。屑がせつないですが、屑は強いのです。
吟行にも励まれたようです。出羽三山神社での句です。
新酒酌む奥の暗きがわが寝所
穴惑見しも秘事とす湯殿山
ぐっと踏み込んだ自己表現のようにも見えるのが「わが寝所」でしょう。
『くれなゐ』には切り取った写生の画面から、解き放たれたような夕紀さんの心の中が垣間見えるような気がします。魚目先生が逝かれ、お若い句友を亡くされ、その上伯母上様まで亡くされたことは、おおきなショックであり、やはり俳句に表れるものなのでしょう。ランダムに好きな句を挙げさせていただきます。
こほろぎやまつ赤に焼ける鉄五寸
終戦日空に濃き雨うすき雨
旅にゐて塩辛き肌終戦日
先生のペンは撓へり梅擬
群青の山並越えよ半仙戯
鮎釣の見えざる足が石摑む
読めるまで眺むる葉書雪あかり
鵜を起こし鵜匠の一日始まりぬ
鵜篝の舟の人消す煙かな
今もふたり窓に守宮の登りゆく
鉄斎を一幅見せむ風邪ひくな
水揺れの冬日に酔うてゐたりけり
最後に以下の二句で筆を擱きたいと思います。
日の没りし後のくれなゐ冬の山
魚目師の教えとしての、「後ろを向く」と言う作り方を踏襲したように思えます。日没の後の闇の現物から目を離し、後ろを向いて心に広がるものを待って得たのが雪山でもなく、枯山でもなく「くれなゐの冬の山」だったのではないかと思えるのです。
ばらばらにゐてみんなゐる大花野
みんないる大花野だけれど、ここでの眼目は「ばらばらにいて」だろう。一人一人が自由に自分の中の歓び悲しみ怒りを俳句にしてきた大花野は、ますますの広がりを見せることでしょう。
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