2020年12月11日金曜日

【眞矢ひろみ第一句集『箱庭の夜』を読みたい】7 『箱庭の夜』雑感  藤岡紙魚男(古書はるか堂店主)

  この稿では、俳句初心者ではあるが永年活字に親しんできた一読書子として、印象に残った句を中心に感想を述べてみたい。

 蒼天をピアノに映し卒業す
 末黒野に空の真青の始まれり
  
 この二句は青と黒の鮮やかな色彩を感じさせるとともに、春の明るさと未来を思わせる。私の卒業式にも、確かに蒼天はピアノに映っていたと感じさせる句である。
 「やあ失敬」と朧月夜を後にせり
 テレビ句会でよく拝見した金子兜太氏の人物の特徴を、「やあ失敬」という四文字で一瞬に切り取った巧さ、金子氏の声が聞こえるように感じた。
 静物の傾ぐ昼過ぎ蟻地獄 
 ぼうたんの蕊震へをり白日夢  

真夏の時間が止まった世界を「静物の傾ぐ」と表現して面白いと感じた。ダリの『記憶の固執』の世界か。また次の句は、初夏に牡丹の蕊が震えるのを見ているうちに、いつしか催眠術にかかったように脱力感を覚えて、そのまま白日夢の世界に。まるで鏡花の世界のようでもある。
 在ることのはかなき重さ遠花火  
 苦界には始めと終わり秋深む 

 こうした死を意識した内面の世界に切り込んだ二句も印象深かった。第二章(決意)の途中にある一句に、
 ステージⅢとてみつ豆の甘さかな
とさらり詠まれているが、それが句集全体の通奏低音として流れているのは間違いないように思われる。
 ぼうたんの揺るるは虐殺プロトコル    
虐殺プロトコルは、伊藤計劃のSF小説「虐殺器官」で提示された概念と思われる。詩歌でもよく取り上げられる豪華な花、牡丹を、このカルト的SFのモチーフである言葉と配合させている。その大胆さに驚いた。

 次に、句集を通じて感じた、俳句の傾向について述べたい。
 大丈夫青饅が好きならば
 白玉の歪み好きです不惑です
 窪地フェチ春を清らに言えません
 相撲協会危機管理局ヒアシンス

 句集には、揚句など口語調の俳句が少数ではあるが含まれており、ユーモアを感じる句が多かった。それも所謂下ネタまである。江戸期の俳諧を思えば、この程度は許容範囲で、むしろ大人しいレベルなのだろう。
 
  「鬼」の出てくる句が多いのも特徴となっている。鬼の文字が出てくる俳句は全章にわたって十一句あり、うち六句は鬼を直接描写している。総数三〇〇の句の中で、この数は極めて多いように感じる。
 鬼の腕を濡らすひとすじ春の水
 夢に来て海馬に坐る春の鬼
 花影の妣より少しずれて鬼

揚句はいずれも春の句であり、生命の息吹を感じる。鬼に対する作者の捉え方は、大ヒットしている「鬼滅の刃」などに見られるような魔物、妖怪の類とは違い、宿神と人の間に立つ精霊のように捉えているように思う。安定した日常世界にやってくる、異界からの来訪者であり、魂の再生をもたらすものある。春の水が腕を濡らし、人間の脳の中心である海馬に来て座るのは、このような鬼の力を暗示している。それは、折口信夫の「まれびと」を思った。
 初空やマレビトを待つがらんどう
 マレビトを待つ末黒野の端っこに

 そのことを裏付けるように、まれびとが揚句に登場する。空疎になったもの、空虚な心に魂を注入するのがまれびとであり、人は聖なるものとして登場を待ちこがれ歓迎する。それは秋田の「なまはげ」のように、祭りや宗教行事に登場する鬼の性質である。
 虚子の忌や百鬼夜行の美しきこと
 鬼をそのように捉えるとすれば、この句の読みも変わってくる。虚子の忌は四月八日、春たけなわの時期である。百鬼夜行といえば京都であろうか、花も盛りの真夜中、魑魅魍魎、もののけ、鬼どもの群れ・行列に出会すのである。しかし著者は、元来、見たものは命を落とすといわれる夜行を美しいと賛美しているのだ。単なる幻想の描写というより、喩或いは一種のイメージのようにも読める。
 虚子の忌と百鬼夜行を繋ぐものを思えば、虚子をまれびと、または折口が芸能論で言及した「翁」のような存在として位置付けているのではないか。能の冒頭に出てくる「翁」は彼岸と此岸を結び、場を設える。とすれば、百鬼とは虚子周辺の多くの文人等を指すものと思われる。俳人はもちろんのこと、漱石まで含めてその多士済々は、虚子の存命中から現在に至るまで周知のとおりである。虚子(の霊)が古代からの基層、伝統との中継ぎとして場を整え、鬼たちはおどろおどろしくも、まことに美しい多彩な世界を繰り広げている・・・・そのようなストーリーを彷彿とさせる。私は、虚子が昭和初期に高弟たちと行った吟行「武蔵野探勝会」を思い浮かべた。この句を通じて、読者は、良くも悪くも、虚子の大きさに思いを馳せるのではないか。
 夜神楽の死にゆく鬼の淡きこと
 人に魂をもたらした後、鬼は山へ、常世の国へ戻る。夜神楽を見る者には、その死がまことに呆気なく感じられる。しかし、それは当然のことであり、もともと異界の住人が出処に戻るに過ぎない。神や魂を得た英雄に追われて姿を消すことは、形としては死であるが、いわば宿命であって、諦観はあるにしても悲嘆とは無縁である。
 実のところ、私はこの鬼に某俳人の姿を重ね合わせた。先の揚句で鬼を俳人と読んだ影響かもしれない。ただし「精魂を傾ける」という一般的な意味での鬼である。半世紀を超えて俳句に真摯に向き合い、病を得てからの日常は過酷を極めたはずだが、淡々として句作を続け天寿を全うした。

 句に取り上げる素材、モチーフの面から、マクロ・宇宙とミクロ・動植物との配合による句が印象に残った。
 星よりの細き光を蜘蛛渡る
光る蜘蛛の巣の上を、蜘蛛が渡っていく。星の光とする以上、夜の場面であろう。無論、巣を照らす星からの光を特定することはできない。星が光っている以上、蜘蛛の巣も照らしているはずという想念に過ぎない。この想念の延長線に、数千光年も離れた星からの微細の光と、地球上のミクロの世界に生きる蜘蛛との邂逅に至り、それを「渡る」という実態に見出している。
 光年の先行く秋の道をしえ
 金星にふれて末枯はじまりぬ
 星こぼる朴の落葉の裂け目より

 同様に、宇宙と動植物の接点を取り上げた句である。「先行く」「ふれる」「裂ける」という言葉が、邂逅を演出して両者を「繋ぐ」描写になっている。
 月天心アポトーシスの始まりぬ
 趣は少々異なるが、これもマクロ・ミクロ取り合わせと言える。アポトーシスは、あらかじめ計画・予定された細胞の自死活動を指す。癌細胞はアポトーシスが起きず、増え続けることによって生物に死をもたらす。月の威力・慈愛であろうか、アポトーシスが「始まる」ことは、癌患者にとって朗報となる。伝統を踏まえた月と、ミクロの世界で億万の細胞が直面するイベント「自死」との配合である。

 終わりに俳句初心者としての思いを述べて拙稿を閉じることとしたい。
俳句が現代でも文芸上の有力な表現手段として存在ひを維持し得ているのは、作者の鋭敏かつ繊細な神経が潜在的に捉えている様々な危うさ(肉体的、精神的危機といっていいのかもしれない)に形を与えることができる表現行為だからだと私は思っている。定型短詩という極端に窮屈な枠の中ではロジックで語ることが出来ないために、ときには難解、晦渋な語彙・表現が飛び出す。そしてそれがまた魅力でもある。
 この稿で取り上げたのはほんの一部に過ぎないが、この句集には、そうした意味で多彩な表現方法で作者の危機に形を与えた秀句が数多く収録されていると感じた。

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