2013年8月2日金曜日

【俳句時評】保見光成の「俳句」を信用する / 外山一機


 「つけびして/煙り喜ぶ/田舎者」―ここ数日にわたってこれほど目にすることの多かった「俳句」はあるまい。この「俳句」は、七月二一日から二二日にかけて発生した山口県周南市金峰の郷集落における連続殺人・放火事件の容疑者保見光成が自宅の窓に貼りつけていたとされているものである。被害者やその周囲の人々の心情を考慮すれば、あるいはまた、この事件についてまだ見えない部分が多い段階であることを思えば、安易な発言は慎むべきであろうが、僕たちがどうこう言う以前にすでに「俳句」としてひろく知られてしまっているこの「俳句」について、いわゆる「俳壇」からは何の発言も期待できないだろうし、そうこうしているうちにこの「俳句」は急速に人々の記憶から消えていくにちがいない。そのようななかで、この厄介な「俳句」について何も発言しない怠慢に僕は耐えることができない。というのも僕には、僕たちが仮にも誠実な俳句の書き手であろうとするならば、この「俳句」をむしろ僕たちの俳句表現の現在として積極的に引き受けていくことがどうしても必要なのだと思われてならないからである。

さてこの「俳句」だが、「つけび」とは一般的には放火の謂であるものの、事件のあった集落では野焼きを指すようである。事件の背景として集落での保見の孤立がすでに指摘されているが、保見の弁護人が三一日に行った記者会見によれば、「つけびして」は、集落内で自分への悪いうわさを流すという意味、「田舎者」は集落の人を指したつもりだったという。とすれば、これは悪いうわさを流して喜ぶ人間の姿と、野焼きという農の営みが今年もまた無事に行われたことを喜ぶ人間の姿とを二重写しにした句ということになろう。そして僕はここに、飯田蛇笏にはじまる「雲母」の系譜の鬼子を見る思いがするのである。
 蛇笏から龍太へ、龍太から甲子雄・直人へと、明治世代から昭和世代に至る「雲母」三代に継承されている核心は、山間に培われた鋭敏な感性に基づく言葉や季語によって、直截に季節の巡りが見せる自然の実相を目指すことである。(略)季題趣味という類型的な言葉の働きや、それによってつくり出される美的情趣の虚の世界は排除されている。(川名大『現代俳句』下巻、筑摩書房、二〇〇一) 


かつて山村への定住を選択した蛇笏や龍太は伝統的な季題の情趣を排した作品をつくりあげていったが、翻って、いま山村に生きるというとき、そこから生まれてくる俳句として保見の「俳句」はこれまで僕たちが考えていたそれとは異なるリアリティを獲得しているように思われる。そしてそのリアリティは同じ集落に住む者を「田舎者」と呼ぶような、外部者的な位置からのまなざしによって保証されるものではないだろうか。外部からやってきた保見が集落のなかでどのように変化したかを示唆するこんな記事がある。

 山口県周南市金峰の民家4軒から男女計5人の遺体が見つかった殺人・放火事件で、同じ集落に住む保見光成容疑者(63)が殺人などの疑いで逮捕された◆10年前、過疎に負けずに生きる金峰地区の人々を取材した「続・さくら色の夢」と題する記事を本紙の西部版で連載したことがある。工務店の仕事をやめて川崎市からUターンした保見容疑者も、実名で登場している◆老母の介護でおしめを換え、たんを取っていた評判の孝行息子はいつしか、奇矯な行動で近隣住民とトラブルの絶えない問題多き人物になっていたらしい(「編集手帳」『読売新聞』朝刊、二〇一三・七・二七) 


保見のまなざしはおそらくこうした変化のなかで「いつしか」育まれたものであったろう。それは蛇笏とも龍太ともちがうけれど、しかし蛇笏や龍太と同じように山間に住む人間の生がもつ看過できない切実さを伴うまなざしである。 一方で、この外部者としてのまなざしの切実さはまた、僕に金子兜太のいういわゆる「生きもの感覚」の強度を教えてくれるものでもあった。  


人間の心には〝原郷〟という大もとのふるさとがあって、本能にはその〝原郷〟を指向する動きがある。本能にこの動きがあることによって生じる感覚を、私は後に〝生きもの感覚〟という言葉で表すことになります。本能が、この〝生きもの感覚〟を呼び出すことがけっこうあるというか、わざわざ求めていくことがある。つまり本能には、そのように欲にとらわれる面と、〝生きもの感覚〟を発揮させる面との、両方があるわけです。(金子兜太『荒凡夫 一茶』白水社、二〇一二)


 「原郷」にせよ「本能」にせよ「生きもの感覚」にせよ、こうしたものの共有を信頼してやまない兜太から最も遠い場所にいるのが保見ではなかったか。兜太は自句「おおかみに螢が一つついていた」について次のようにいう。 


私の頭のなかに森(=産土としての秩父)があり、そのなかに狼があらわれてのこのこ歩いている。そういう光景に対して、私なりの〝生きもの感覚〟が強く働いているのです。(前掲『荒凡夫 一茶』) 


兜太の「生きもの感覚」やその共有への信頼感を支えているのは、ふるさとである秩父への強い憧憬と信頼であろう。兜太は句会で喧嘩を始める大人たちを見て「ああ本当の人間とはこういうものだ」「人間というのはおもしろいものだな」と思ったというが(前掲『荒凡夫 一茶』)、「人間」をこんなにも肯定的に語ることのできる兜太の資質を支えているのも、やはり同じものであったろう。翻って、「工務店の仕事をやめて川崎市からUターンした」保見の場合はどうだったのだろう。そして「つけびして/煙り喜ぶ/田舎者」という保見の「俳句」は愚劣だとか下手だとかの一言で切り捨ててよいものなのだろうか。兜太を根底のところで支えている肯定的な人間観とはあまりにも異なる場所から立ち上がっているこの句を前にして、僕はむしろ兜太の言葉に不信感さえ覚えるのである。


たとえば兜太は東日本大震災の際、「津波のあとに老女生きてあり死なぬ」と詠んだが(『俳句』角川学芸出版、二〇一一・五)、これは事件発生から数日後に山中で警察に発見された際「死のうとしたが、死にきれなかった」と話したという保見とは対照的であった。このとき「老女」をして「死なぬ」存在へと昇華せしめることに表現者としての自らを賭したのが兜太であったとするならば、否応なしに「死ねぬ」存在へと変貌を遂げてしまったのが保見であったのだ。換言すれば、自他の渾然とした場所でどれだけ切実な叫びを吐きうるかという点にこそ兜太の賭けの眼目があり、兜太はそこへ全霊をかけての投機を試みたのだったが、一方の保見はついに出しそびれてしまったチップを持ったまま佇んでいたのである。


そして僕は軽薄にも、やっぱり後者にこそ近しさを感じる。それは三・一一後の僕たちが「死なぬ」老女のリアリティを早くも過去へと送りこみながら、一方ではそれが「死ねぬ」保見のリアリティへと転じていくのをなすすべもなく見やっているのをかえりみたとき、兜太の「生きもの感覚」を共有しているというにはあまりにも頼りないし、すくなくとも僕自身のそのようなありように照らしたとき、兜太の「生きもの感覚」は「死のうとしたが、死にきれなかった」という言葉よりも信用ならないものに思われるのである。


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