特別座談会は「超世代で語る 俳句のスタンス」(宇多喜代子/高野ムツオ/小川軽舟/阪西敦子)。これを読む限りでは、俳句界はジェネレーション・ギャップとは無縁のようです(インターネットの使用、といった周辺トピックは除いて)。バリア・フリーという言葉がちょっと前によく聞かれましたが、季語と切れに関する基本的ルールを覚えれば、妙な表現に転んだりせずに歩きまわれる安全な場所という印象(いや、老人向けっぽいとかそういうんじゃないですよ、たぶん)。それでも転んじゃう人は「結社」に入れば、なおよろし(座談会ではこちらの話が多いですね、俳句の集まりではだいたいそうですけど)。
俳句にはルールがあるので一般向けではない、という趣旨のことを昔どこかで読んで、うーん、それは違うのではないかなと感じたのを思い出しました。むしろ、季語や切れといったルールは一般人にとって俳句の世界に入りやすくしている要素だと思うのですね。だって、それを守っていれば(上手下手はとりあえずおいて)、「俳句」になるのだから。ルールがなくて何か書いてくださいといっても、だいたいの人は特別書くことなんてないですしね。俳句人口が増えているとしたら、これはどうしたって雑誌特集などでどんどんマニュアル化してくれているルールのおかげでしょう。
うーむ、すいません、実際の座談会とはすっかりズレた内容になってしまいました(だから、ちゃんと買えって)。要するに?、読んで、世代の上の人間は下の人間が書いたものが基本的に分かる、下の人間も上の人間に分からないような書くつもりはない、という雰囲気が濃厚だった、ということです。
渡辺十絲子著『今を生きるための現代詩』(講談社現代新書)は、新書では珍しく現代詩をとりあげています。「現代詩とはぐれた」人(「「むかしは詩を読んでいて、一九八0年代ごろまでの詩人の名前は知っているけれども、今世紀に入って出版された詩集は手にとったことがない」という人」向けに書かれている。いやー、現代詩とはぐれかけているかなー、と最近思わないではないので、こちらは買って読んでみました。
渡辺さんの個人的現代詩体験を基本ラインに、分かってもらいたい、でも分からない難解な部分も守りたい、というのがせめぎあっていて、何だかハラハラしてしまいました。現代詩をそれなりに読んできたものにとっては、身につまされる、というか、あるい意味、シンドい読書体験(そんなに私は「はぐれて」なかったということか)。基本的には、正直なよい本だと思いました。
上に書いたような読者層を想定している、ということで、当然というか、「分かる/分からない」、詩の「難解」さをいかに納得してもらうか、がメイン・テーマとなっています。第一章では、谷川俊太郎の「生きているいうこと/いま生きているということ」よく知られた詩「生きる」をとりあげて、渡辺さんが中学生のときに教科書に載っていたこの詩に違和感を覚えたということが語られる。その理由が、最終的には、以下のように(ちょっと引用長くてすみません)説明されています。
この詩は、詩に出会いたての中学生の理解力で「こなせる」ほど手軽な詩ではないのである。それどころか、詩の初心者である。それどころか、詩の初心者であるこどもにあたえるのにもっとも向かないタイプの詩だと思う。
その理由は、ヨハン=シュトラウスやピカソに代表されるような「おとなの一般常識」をあてにしなければ、この詩は読む人には、この詩は読む人に伝わらないからである。
[・・・」
ピカソが二十世紀の美術にどんなインパクトをあたえたか、ヨハン=シュトラウスの作曲したワルツやポルカが現代のわれわれの暮らしのなかにどれくらい響いているものか。つまり彼らが人類にとって魅力的な、すてきな存在だということの了解が(たとえぼんやりとでも)なければ、この詩のなかの「ピカソ」「ヨハン=シュトラウス」ということばは「読めない」のである。
また、おとなならば誰でも思い浮かべられる「産声があがる」ことや「兵士が傷つく」ことの映像的イメージ(から出発し、人類共通の、ぼんやりした感情的リアリティーに行きつくもの)にも、この詩はかなりの部分をたよっている。体験がとぼしく教養もないこどもに、このイメージをいますぐに共有しろと言っても無理である。
つまり13歳のわたしは、この「生きる」という詩にこめられたリアリティーをまったく感じることができなかったため、わたしにとってこの詩はうすっぺらなことばの羅列にしか見えなかった、というのが真相だと思う。(26ー27)
うーむ、さっき「基本的には、正直なよい本だと思いました」と書きましたが、この部分はいただけないな、と思います。本当は、この詩の場合、つまらなさは「ヨハン=シュトラウス」と「ピカソ」について深く知っても、詩の面白味は深まらないという点にあります。逆に、よく知っている人はこんな使い方をして、と引っかかる可能性大。「産声があがるということ」、「兵士が傷つくこと」については、実際に「「兵士が傷つく」ところをみたりしたら、こんなに軽くは書けない。作者はこんなことは重々承知で書いているでしょうし、「ヨハン=シュトラウス」と「ピカソ」は名前の響きと、後衛・前衛、音楽・美術といったバランスで選んでいる。そのセンスを(大人としては)楽しむ詩でしょう。「この詩はうすっぺらなことばの羅列にしか見えなかった」とあったけれど、この詩の「ことばの羅列」はどうしたって「うすっぺら」です。「ヨハン=シュトラウス」と「ピカソ」をよく知っている人は、この部分を読みとばさないとこの詩は読めない(読む気になれない)でしょう。渡辺さんも、少し前の部分で、
でも、この詩[「生きる」]は違っていた。こころがふるえなかった。危険ではなかった。危険ではないということは、魅了されないということである。なぜそうなのか、13歳のわたしには見当もつかなかった。(26)
と書いているように、13歳の時から、たぶん分かっているのだろう。13歳の自分をもう少し信用したほうがよいのではなかろうか、と思わないではない。と書いて、読み返してみましたら、少し後に、
要するにこの「生きる」という詩は、「知的世界の一般常識」を作者谷川俊太郎とわかちあえる読者だけに供された「おとな向けのおしゃれな小品」なのである。ああしゃれているな、スマートだな感心するためのものだ。正面きって批評や鑑賞をすべきタイプの「本格派の詩」でもないし、ましてこどもの国語科の教材にするようなものではない。(30)
とあり、ああ、この詩が嫌いだったんですね、と分かる仕掛けになっている。やっぱり基本的に正直な本である。「この「生きる」という詩にこめられたリアリティーをまったく感じることができなかったために・・・」とか、書かなければいいのに。この詩に「リアリティー」なんてない、わけでしょう。
おっと、俳句時評であることを(毎度ながら)忘れかけておりました。とりあえず、上の部分まとめますと、渡辺十絲子著『今を生きるための現代詩』はいい本です、ぜひご一読を(オイオイ)。
強引に最初の『俳句』特別座談会の話につなげますと、「見当」違いの説明を後々つけてしまう、というのが、この「分かる/分からない」をめぐる論議のややこしいところ、で、こんなことに揚げ足をとられずに楽しくやりたいというのがマトモな人の感覚だろう、と思うのです。現代詩(つまづきの石がる、というか、地雷原のような)なんぞにかかずらわっているのは、この面倒が好きなキトクな方々か、根本的にこの面倒をじぶんで抱えてしまっている人たちなんでしょう。
というのは、もちろん私じしんを含めていっているわけで、私が好きな現代の俳句は、ほとんどの人にとって、「転ばせよう」と思っておいてある障害物にしか見えないような句なんです(もちろん、作者は「転ばせるため」に書いているわけではないでしょうけどね)。
空はとかげの色に原爆を落とす日 中村安伸
マンゴーを紙の力士は縛りけり 岡村知昭
昼顔やあれ神経家のおはよう 九堂夜想
バリア・フリー化も結構ですが、たまには転ぶ危険もないと、足腰が弱るのではないですか・・・と、これは老婆心でした。
久留島です、こんにちは。
返信削除残暑厳しいなか、お疲れさまです。いつも拝読しております。バリアフリー、俳句では当たり前になりすぎてて、あえて「難解」論争に組み込もうという意識もありませんでしたねー。無自覚、こわい。
ところで掉尾の「昼顔やあれ神経家のおはよう」は九堂夜想さんの句ですね。外山さんの句で見覚えないので気づきました(^^;
曾呂利様(久留島様)ご愛読ありがとうございます。
削除『セレクション俳人 プラス 新撰21』(邑書林)収録の「アラベスク 九堂夜想」にて確認いたしました。上記訂正いたしました。ご指摘ありがとうございました。
正)昼顔やあれ神経家のおはよう 九堂夜想
関係者ならびに読者の皆様にご迷惑をおかけしたお詫び申し上げます。