83.噛み含む水は血よりも寂しけれ
俳句は短さゆえにひとつひとつの言葉にさまざまなことを関連づけ、あらゆることを想像する。
上掲句が何かの隠喩ならば、まず血族のことだろう。
「血は水よりも濃し」の反対を考えた時に「水は血よりも寂しい」という構造になっていくことを考えるからだ。
「水」が主語になっているのだが、上記のように反意を考える故に「血」に重点がいく。そして「血」という文字、「噛み含む」という表現から、肉から血が滴るような生々しさをも思うのである。
こちらむけ我もさびしき秋の暮 芭蕉
去年より又さびしひぞ秋の暮 蕪村
さびしさのうれしくも有秋の暮 蕪村
「さびしい」と詠うのは古くから秋とされてきたが、秋が寂しく感じられるからであり、寂しいことが句の主体であればそれは通年のこと、無季になりえる。
『眞神』の空間設定が山間部の村落であるとするならば、その寂しさは、夏であれば、水の滴り、蜩の声とともに増幅され、秋であれば風の音、時雨の音に掻き立てられ寂しさという恐怖がしのびよるようである。
その水は山から流れ出てこれから先の句「手を筒にして寂しければ海のほとり」へと繋がってゆく。水という流れるものに生命、魂、そして血に人との繋がりを考える。あたらめて寂しいという意味を噛みしめるのである。名句である。
0 件のコメント:
コメントを投稿