「どもり」は今では差別用語とやらの指定を受けているのだろう。その伝でいけば先に触れた兜子の「啞ボタン」の句や
春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり 西東三鬼
ちびだつた
金はなかつた
かつこわるかつた
つんぼになつた
女にふられた
かつこわるかつた
遺書を書いた
死ななかつた
かつこわるかつた
さんざんだつた
ひどいもんだつた
なんともかつこわるい運命だつた
かつこよすぎるカラヤン 谷川俊太郎「ベートーベン」
などは差し詰め今では発禁処分なのだろうか?大切なのは使われている言葉ではなくその奥にある作者の心であるということが分らない連中の何と多いことか。そういう言葉狩りは無意味であるということを言葉を使う詩人や俳人が声を大にして訴えていくべきであろう。
話が大きく逸れた。兜子自身はどういう話し方をする人だったか知らぬが吃音ではなかった筈だ。してみるとこの「どもり」は作者が水際で見かけた人なのだろう。水際で何かが燃やされているか、煙がもうもうと立っている。そこからひとりの「どもり」が立ち去る。はっきり「どもり」と書いているからには作者はこの人と話をしたか、或いはこの人が誰かとしゃべるのを聴いてその吃音に気付いていたのだ。立ち去る様子を「重い鳥のごと」と表現した。
重い鳥と言えば、湾岸戦争の時ペルシャ湾に重油が流出して油まみれになった鳥の写真が新聞などに掲載され話題を呼んだのを思い出す。また
松島を
逃げる
重たい
鸚鵡かな 高柳重信
という俳句も浮かぶ。これは昭和54年に刊行された第9句集『日本海軍』所収なので、掲出句を含む章「轢死の葡萄」が昭和36年に作られた俳句から成ることを思えば、兜子が重信の「重たい鸚鵡」からイメージを借りたということはなさそうだ。いずれにせよ、その吃音のごとくにも重い足取りで去ってゆく男(モデルはやはり女ではなく男だろう、吃音も男に多い)を本来は軽いものの代表である鳥に譬えた洞察力には舌を巻く他ない。
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