筑紫磐井著『21世紀俳句時評』(東京四季出版)を読了。雑誌「俳句四季」の時評10年分(平成15年1月~25年1月)から選んだ時評集とのこと。時評の名に値するかどうかまことにアヤしい拙文などはさておくとしても、時評なるものは読み捨ての宿命であって、後で読まれることを期待していない(いや、テキトウに書いてるんで、むしろ読まれないで欲しい、すぐに忘れてください、と願っている?)ものが多いのでは、と思われる。この文庫本サイズの書物に収められた各編は、その意味で、例外といってよいでしょう。10年のスパンでの長期観測を通して、それ以前以後の俳句の展開までも読み取れそうです。いや、本来、しっかりと書かれた時評とは、よく磨かれたレンズのように、遠くまでを見ることを可能とするものなのだろう・・・。
筑紫さんの時評がよくある時評の退屈さや射程の短さを逃れている理由は、俳句の世界全体を公平に見渡すと同時に、自身の嗜好や判断を容赦なく示しているからだ。伝統‐前衛、各世代を均等にとりあげる、となると、ぼんやりとした褒め言葉を並べることになってしまいそうなところ、〈驚き〉を与えてくれた作品(実際、私が読んでも面白いと思える句が多い)について、その〈驚き〉がどこから来たのか明確に分析しながら述べてくれる。ジャンル全体に関わってこうした書き物を生み出すには、とてつもない量の〈退屈〉に向き合ったうえで、いまだ驚くべきものに驚く精神を保たなければならないことは想像できる。
さらに、ところどころで、次のような鋭利な断言が飛んでくる。
[安井浩司について] 意味はなかなか伺いがたいかもしれない。しかし、いつから俳句は分かりやすくなければならないなどと決まったのだろう。(p.68)
[新聞俳句について] ともに稲畑汀子、金子兜太、川崎展宏、長谷川櫂だというが、こうして指摘されてみると、商業誌の投句欄や結社の雑詠欄に比較しても、いまさらながら格段のレベルの低さを否めない。(p.94)
人は意外に思うが、俳句は口承詩なのである。愛唱に堪え得る一句を作り、残すことが俳人の使命である。(p.139)
[岸本マチ子の句について] 違和感? 実際これくらいの問題意識がなくて、どうして俳句が現代文学であるなどといっていられようか。(p.316)
[鳥居真里子の句について] 表現として、緻密に神経を張り詰めているのはよく分かるが、表現だけで持って行けるところなど現代俳句でははもう壁にぶつかっている、作者はそれに気づいた数少ない伝統派の作家である。(p.319-320)
[日本気象協会の二十四節気見直し案問題について] しかし二十四節気を変更することによって、ますます東京中心主義が増長されるなら、何もしないに越したことはない。(p.517)
[前北かおる、鈴木淑子、杉原祐之について] しかし、若い世代同志で比較している内はよいとしても、例えば、戦後世代としてひとくくりにされて、大竹多可志、山田耕司などと比較されたときには当然のことながらかなりの酷評とならざるを得なかった。人生の重みといってしまっては言いすぎだが、何かに賭けているかどうかの差は歴然としてしまうからである。(p.526)
俳句という文芸は、その目的が「美」なのか「真」なのか、答えは単純ではないが、俳句をたしなむものは時々その質問をしてみるとよい。(p.568)
新しい世代を呼び込めない文芸ジャンルは滅ぶしかない。(p.583)
(各評言とも文脈があるので、取扱いにはご注意ください。)引用連発になってしまいましたが、それだけ気になる発言が多いということで。これらの強い断言が、拡散しそうな視野をぎゅっと引き締める、と同時に、読み物としてこの時評集を楽しめるものにしています。
また、他の俳人たちの発言についても、ていねいに目配りをしたうえで、いちばん面白い部分を抽出してくれているように思われます。
「(ある俳句が)抵抗なく読む人の頭に入ってくる。つまり、文章を読むように理解される。しかし、これはいけないのだ。つまり、散文の一切れ、詩の一部分に終わっているからなのである」「(逆に秋櫻子の句は)どこかつかえる部分がある。しかし、「俳句らしさ」は当然、この句にもあるのである」(p.285-6; 楠本憲吉)。
●俳句の本質は挨拶である。そして挨拶性は、句会と題詠にこそ現れる。実は、虚子がホトトギスで始めた雑詠は、題詠を断絶し、句会を雑詠の予備化するものであり、その近代的意味(投稿作品の優劣を選者が競わせるという意味)から言っても「反挨拶」的である。(p.291; 小澤實)
[…]江戸時代にあっては、俳人と一般人との生活の落差に「俳」が生まれていたのに対し、明治以降は写生によって新たな俳を生み出そうという試行が行われていた時代だと述べている。(p.293; 小澤實)
「月並が俳句にとり不可欠の要素であることは俄か俳人でない限り頭か肝のなかで納得している」(p.454; 加藤郁乎)
(これまた、各文とも(今度は二重に)文脈があるので、取扱いにはいっそうのご注意を。)
しかし、怠惰なながら俳句ファンをしている人間としてありがたいのは、面白そうな句集のエエとこどりでたくさんの句を引用してくれているところ。次のような句がエエとこどりでなかったら、それこそ俳句ってスゴい!となりそう。
基督は欝にあらずやいたちぐさ 星野麥丘人
傀儡師が消え戦争が始まった 吉田汀史
裏側に裏と書かれし暑さかな 永末恵子
括約筋見事に使いこなす雁 山崎十生
さくらんぼヨセフにねだるマリアかな 有馬朗人
手首だけ運ばれていく日傘かな 渡辺誠一郎
花燃えるくさかんむりに火がついて 高澤晶子
死者の脂滴る 井桁の薪から 伊丹三樹彦
彼女やつとプールの我を見付けけり 本井英
月明の眠剤ひとつふたつ百 中岡毅雄
ガリレオの頭蓋もかくや寒の月 鷹羽狩行
初句会帝国ホテル孔雀の間 星野椿
草餅の端より草餅始まりぬ 久保るみ子
挽肉の紐状に垂れ蝶の昼 中村和弘
目次に、各編で主人公としてとりあげられる作家名が記してあるのも助かります。あまり見たことがない処理な気がしますが、散漫になりがちな時評集という形態を読みものにするために、まことに適切なものであると思われます。俳壇、俳句誌、アンソロジー、句集シリーズなどについて、ほどよくジャーナリスティックな(しかし、意味のある)情報を与えてくれるのも・・・、などといい始めるときりがないですが、唯一、この本、ちょっと手に入れにくいのが難でしょうか。本屋で偶然出会うか、出版社に注文するより他なさそうです。それだけの価値はじゅうにぶんにアリ、ですが。
東京四季出版URL
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