【八】《遠星集》の津田清子と山口誓子の《選後獨斷》
1)
津田清子。昭和二十四年の第二卷第六號から十二號までの《遠星集》の掲載句は、以下の十三句である。
母の忌や田を深く鋤き帰り來し 昭和24、VOL・2 NO.6
難破船しばらく春の潮湛ふ
野の緑巻尺を卷き了りけり(遠星集1) 昭和24、VOL・2 NO.7、8
百姓の生涯青し麥青し(遠星集2)
身長はまだまだのびる藤畢る
巻頭
虹二重神も恋愛したまへり 昭和24、VOL・2 NO.9
交響曲の最後は梅雨が降りつつむ
紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る 昭和24、VOL・2 NO.10
西日の車窓それから幾頁を読みし
青田青し父帰るかと瞠るとき 昭和24、VOL・2 NO.11
吾下りて夕焼くる山誰もゐず
木の実木にぎつしり汽車がぬけとほる 昭和24、VOL・2 NO.12
うろこ雲ひろがりぬ産声を待つ
誓子はほとんど毎回、清子の句に触れている。これらの句で誓子が《《選後獨斷》》に触れたものは、後述の予定。(なお1〜5号までは原典を資料としてまだ見ることができないので、宿題として残しておく。)
2)
「虹二重」の句が巻頭を飾った翌月号(昭和24、VOL・2 NO.10)、巻頭三人は、
焦土にて馬も西日をまぬかれず 奈良 小山都址
流木を飛び立つ燕島影なし
蒼海につばめ群れ飛び水葬す
積乱雲生れて間なし犬吠ゆる 岐阜 薄 鵜城
夏座敷佳けれど廃墟かくれずに
紫陽花剪るなほ美(は)しきものあらば剪る 奈良 津田清子
西日の車窓それから幾頁を読みし
である。天狼誌の中でこの雑詠欄がいかに重要であったか、を誓子の文章を追いながら見ておきたい。
今回は、昭和二十四年十月号、この号の《遠星集》の《選後獨斷》の前半書き出しには、誓子の俳句観や新人育成の方法がのべられている。
3)
「天狼」で山口誓子選の雑詠欄《遠星集》が発足して以来。に様々の反応があったようである。その一つに、北海道の俳誌「緋衣」の批判がでて、それに答える誓子の長い反論がある。誓子の文章の概要を記しておく。(《選後獨斷》昭和24、VOL・2 NO.10)
(なお、俳誌「緋衣」は昭和20年11月北海道で創刊(古田冬草)、該当の文章の原典にはあたっていない。)
以下は、二十四年十月号の《選後獨斷》前半部分。「緋衣」の論客の批判点と、誓子の反論である。
☆ 「遠星集の選は、余りにも網の目が細かすぎると思ふ」
「(誓子は)自己の好みといふ最も目の細かい網を用ひて作家をすくひ捕る独断者」である。の二点について、反批判している。
誓子は、自分は「根源に触れたゐる句を選ぶ」のであり「私の好みで選ぶのではない」。
「天狼」は、根源を探求せむとする作家に廣く門戸を開放して勉強の場を提供してゐる。などと反論して、
「天狼」は、ここで育成されむことを願ふ作家の為めの育成機関である。
他の雑誌に於いて為し得る勉強は他の雑誌に於いてされむことを私は望む。
(同文33ページ)
☆ つぎに、誓子の句の真似が多過ぎることなどについて「緋衣」の遠星集への批判。
(前略)。誓子が空気銃を詠へば、遠星集に空気銃が、稲架を詠へば稲架が、焚火を詠へば焚火が夫々氾濫してくる。そこに大衆の愚鈍さがあり、俳句の根本的悲劇があり、しかも極度の厳選といふ事実に依って益々かういう傾向に拍車をかけてゐるのである。遠星集は誓子のさういう表面上の操作を見せつけられるのは毎月数句にとどまらない。(「緋衣」掲載、の誓子の引用文から。)この手厳しい難詰に対する誓子は、
自分は「素材によつて入落を決めるといふやうな形式的な選句はやらない。」「もし、空気銃で目を開けたとすれば、開けた自らの眼によつて空気銃の句を作つて見るのもいゝ。」「斯くて次第に自己を確立し、自己のみを頼りとするところの句を作り出すにちがひない。それが自性発揮である。」「育性には過程を要する。さういふ過程に於いて右に掲げた勉強方法を禁ずることは潔癖すぎる。」(34ページ)「大衆の愚鈍さ」「俳句の根本的悲劇」(「緋衣」の文中の云々のことについては、天狼の作家に対して失礼である、と一蹴。「俳句の根本的悲劇性」は、「自力なくして自力ありと過信する作家が俳句をくみし易しと見ることにある。俳句を怖れなくてはならぬ。念ゝ自力を育て蓄えねばならぬ。」(34ページ)
このように、論難に対する、反論はきちんとしており相手の言葉を使って、相手の論理をひっくり返す、そのような展開のなかで、天狼という俳誌の新人育成の体制を明らかにして、俳誌の絶対的な存在価値を宣揚してゆく。
この「緋衣」の文章を書いた人物については筆者のほうでは分からぬが、北海道で昭和二十年、十一月に創刊された。当地の戦後俳句史では重要な存在である。筆者は、十河宣洋の記述をネットで検索してその記述でおおかたの知識を得たのみである。
遠地であることと、この「緋衣」(古田冬草主宰)の雰囲気自体がかなり、自由主義的なものであったのだろうか?誓子の、緻密さ、独断性が脅威にも奇異にも見られていた、という状況もうかがわせる。
しかし、「根源に触れる」俳句を作れる作家を「育成する」のが、当初の《遠星集》の目標であり、天狼はその「育成機関」である、という、この、いわば私塾、学校、ゼミナール風の場所は、今で言えば、商業的に作られているカルチャーセンターのようなものであるが、もっと厳しい。近年、俳句の楽しさ、座の文学ということが言われているが、少なくとも、この天狼の俳句の修行の仕方には、楽しさ、という要素よりも、かなり実存的な探究をめざす修験場に似た厳しさがある。
それだけに、特に選抜されてゆく清子にとっては、学ぶ楽しさ充実感もあったであろう。
しかし、選が厳しいということは、もれ落ちる句も多いということであり、そのことに触れて、誓子はさらに「緋衣」以外の外部の批判にもこたえている。
☆ 「誓子は青年作家に対する愛情が欠けてゐると云ふ」批判について。
「青年の粗雑なる感情を排したことに関する批評であるが」(誓子文36ページ)、というのは、「天狼」誌のどこかに書かれたものか、他誌掲載なのかも知れない。誓子の選のきびしさ、落選率が高いことについていったのだろうか。
その批判というのは、誓子の引用をさらに引いてくると、『炎晝』『七曜』『激浪』という過去の句集に 「未だ枯れざるプロセス」があった筈なのに、「所謂粗雑なる感情を取扱ってゐるかに見える青年作家に対しても、もう少し深い愛情の眼を向け得るのではないだらうか」、という内容だった。
これに対して、誓子いわく。
私は昔から粗雑な感情の句を嫌ふ。
「天狼」の作家は、殆どみな根源探求を求めて苦悶する青年作家である。私はそれ等の青年作家を温かく包容し、溺愛している。これは周知の事実である。
「遠星集」は、他の結社の如く高等・中等・初等の作家を同時に育成する機関ではない。
事実進度の異なる作家を劃一的に育成することは無理である。
「天狼」では、根源探求といふ網の目細か過ぎる為めに、そのことに修練を積んだ中等以上の作家の句が残って初等の作家の句に落選の率の多いのは已むを得ない。(以上35ページ)
私は屡々添削を施して、句を採用してゐるが、誌上添削などはやらない。(36ページ)
という反論だが、逐次読みすすんでゆくうちに、筆者は、「根源探求」、「根源俳句」という目標を掲げて戦後新しい俳誌を作った俳人たちの構想に同化する気持ちと、さらに「絶対的な教義であった「根源俳句》とはなんだったのか、という疑問に突き当たってしまうのである。山口誓子というリーダーの厳格さは、性格もあっただろうが、「天狼俳句」の型をつくることに普請した結果だろう。このことについての原理的な考察はしばらく置いておきたい。
4)
ともかく、このころの「天狼」で。津田清子がいわゆるズブの素人から頭角を現すことが可能になったのは、この「根源探求」の網目に幸運にもひっかかったからである。
また、その精神を女流で体現しているとされる橋本多佳子の愛弟子である、ということが
「津田清子」という根源俳句の女流を「育成」する道筋ともなってきている。
昭和二十四年十月号、この遠星集の〈西日の車窓それから幾頁を讀みし 清子〉について、
津田清子さん―電車とする。作者は窓際の座席に腰を卸してずつと本を読みつゞけてゐたのである。途中で作者はふつと頭を擡げて外を見た。夏の日が急に西から車窓を照らし始めたからである。作者は光にしばたゝいた眼を、膝の上の本に落し、叉本の虜になつた。
大部経つて作者が外を見たとき、日はもう衰へてゐた。作者は西日が車窓を照らしたときのことを思ひ出し、あれから何頁読んだだらうかと自問した。
「それから幾頁を読みし」は、頁のことでもあるとともに時間のことである。作者のことでもあるし、作者のこゝろのことである。それにしても「西日の車窓」とは美事な省略である。これで時処はぴたつと決定された。
これが果たして片言の文学であらうか。
清子さんの
は、なまじ解きあかしたりするよりも、この儘分析もせず、またそれを総合もせず、讀みかへし、読みかへしてゐる方がたのしいので、敢て指を触れなかつた。
美しい貪婪である。(山口誓子《選後獨斷》。天狼同年十月号)
(註。引用句「美(は)しき」は原句ではルビがついているが誓子の引用の時にはルビはない。
紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る
と終わっている。こういうほめ方から推察すれば、これらの句には誓子の添削はなかったのだろう。この文章の趣旨からして、津田清子に集中して引用しているが、毎号山口誓子の《選後獨斷》では、毎号上位の投稿者の句を俎上に載せて、誓子が考えるところの根源俳句の展開がなされている。
彼女は、次年度昭和二十五年度の天狼賞を受け(二十六年一月号に紹介)、昭和三十年一月号で同人に推挙される。(津田清子。小川双々子、鈴木六林男、佐藤鬼房の四人)。三十四年第一句集『礼拝』上梓、という経過である。(この項了)
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