2013年3月22日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する <77.産みどめの母より赤く流れ出む><78.半月(はにわり)や産み怺へ死に怺へつつ>  北川美美

77.産みどめの母より赤く流れ出む

女性のホルモンバランスを表す「血の道」という言葉が江戸時代からある。精神、身体症状のどちらにも関わる。その「血の道」から僕が出ようとしている。「流れ出む」の「む」は強い意志を表す。作者敏雄はその血の中にいるのだろうか。

もう子供を産まなくてよい身体になった、女性の生理は女であることの証のように閉経までの毎月のものとして訪れる。すでに排卵されなくなった、あるいはもう妊娠の予定のない女の身体を「産みどめ」と言うならば、母は父の子供を孕まなくてよい。母を女性として詠み、その体から赤く出ようとしている。なんとも痛々しく前衛的な発想である。

各地の山岳や霊地の行場で,狭い洞窟や割れ目を通り抜けることを「体内巡り」と言うことがあるが、上掲句は巡りではなく、そこから出るという逆発想の句である。

流れ出ようとしている僕という存在であるが、そうだろうか。

敏雄の目線は、女について考えている。女性という存在に対する悲しみすら感じられる。子を産んでも、女という性である故の悲しみである。

男には理解できない女性の生理あるいは性欲のことのようにも思える。赤く流れ出ようとする前は、母の子宮に留まって、母の情交の一部始終を体感していたことになる。血の道はすさまじ。されど女は女である。小さくなって母の身体に入り込む。

母という言葉を借りて女を表現しようとしている仕掛けではないだろうか。
異性の相手の性を理解しようとする時、苦しくなる場合がある。

この世に男と女しかいない。男と女の間には深くて長い河があるのである。

しかし次の句でその発想は転換される。「はにわり」である。



78.半月(はにわり)や産み怺へ死に怺へつつ

読者に一切の読みを委ねる敏雄はルビを滅多につけない。しかしこの句は違ふ。「半月」と書いて敢て「はにわり」と読ませる。「はにわり」明治時代の隠語辞典に基づくと、両性具有のことを言う。上半月は男に、下半月は女に変るといふに基づき「ふたなり」とも言われる。

上掲句の「はにわり」の意味が「半陰陽」であると断定できないが、仮定として考えてみることにする。

「はにわり」すなわち「半陰陽」は、両性具有という性別不能の人体を持つ人をそのように言うようだが、遺伝子、染色体、性腺、内性器、外性器などの一部または全てが非典型的であり、身体的な性別を男性や女性として単純には分類できないことをいう。心的状況からくる性同一障害、トランスジェンダーと区別される。最近のニュース記事では南アフリカ共和国の陸上選手、キャスター・センメイヤ(2009年にベルリンでの世界陸上選手権にて800mで金メダルを獲得。2012年ロンドンオリンピックの開会式では南アフリカ選手団の旗手を務めた。)の両性具有疑惑が記憶に新しい。

人間は服を着たサルなので性器の形状などが一般的にみて正常か異常かということはわからない。本人も気付かない場合があるという。日本での社会的認識は非常に低いのが現状だ。俗に言う、シャム双生児として生まれたとしたら人々の驚き目にさらされ数奇な運命を辿るかもしれないが、それとは違う。

「半陰陽」という言葉が陰陽師のようであるが今更ながらニューエイジ的名称である。陽と陰、男と女といった対立的にして補完的なものの調和を重視する陰陽思想などに基づいて名づけられたという説がある。ここで思い当たるのは、中宮寺 弥勒菩薩半跏像(伝如意輪観音像)である。あの男性なのか女性なのかがわからない中性的な体つきと足の裏まで滑らかな素肌。微笑んでいるような悲しんでいるような何とも言えない慈悲の表情。神とはこのような姿だったのかと法隆寺展で像に見入ったことを想い出す。

そうなると、この句は、男も女も超越した性を通し、あるがままに普通に生きることが難しいという人生訓のように見える。人は男として生まれたので男らしく生きようとし、女として生まれたので女らしく振舞うよう躾けられてきた。そうではなく、両方の身体の一部を持っていたとしたらどうなのだろうか。男と女を超越することは難しい。逆に男も女もその性を越える存在になること、人として性を超越して理解し合うということは難しいということなのではないだろうか。

古典落語に「ふたなり」がある。金に眼がくらみ女へ自殺の手ほどきをして間違えて首を吊ってしまった亀右衛門の話に人間の業について聞き入る。俳句にも「人間の業」が潜む。

普通に生きて普通に死にたいと大概の人は願う。普通って何なのだろうか。普通に生きることの難しさを考える。敏雄の句を読むと常に逆であった場合はどうなのかということを考えるのである。

「半月(はにわり)」でなければ産み怺(こら)え、死に怺(こら)えなくて済んだのだろうか。満月まで待つことはできないのだろうか。しばし沈黙する句である。


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