「愛」という崇高な究極的な大きな曖昧に対して「餌食」にすると云う。
愛を育みながらではなく、犠牲にして生を得る鴉。貪欲に愛を貪り、狡猾に自己の空を翔び続ける鴉に象徴されたものは何であろうか。雀でも鳩でもない、そんな鴉らと一緒にいる我もまた鴉と相似しているのか、同類なのか。
一羽ではないらしい。「鴉ら」と複数である。
幾多の紫色の濡羽の鴉らと我は、河の終りへ向かっている。河の終りは此の世の果てか。いや、河口であるかも知れない。終りには始まりがある。まして、「愛を餌食の鴉ら」と我なのだから、果てしもなく「愛を餌食」にしていくことだろう。
そして、そこからは海が始まるのかも知れない。
ドラマティックな句である。
「終り」「餌食」「鴉」の語彙から、一見エキセントリックな感覚ではあるが、一句から読み取れるロマンティシズムは、やはり「愛」という語が根幹なのだろう。
私には、「鴉ら」が、重信をはじめとした俳句評論の同人達に感じられて仕方がないのだが・・・。
いづれにしても、大河と大空を背景にしたそのドラマに終りがないことを読手に感じさせながら、強固な生命力が河口より大海原へ羽ばたく可能性も垣間見えてくるのである。
4. 跫音や水底は鐘鳴りひびき
跫音がやって来る。透明で静かな場所へ、ひたひたとやって来る。帰る跫音かも知れない。けれども、「鐘」は、その跫音によって確かに鳴り響くのだ。水底とは、心象であろう。「水底の」ではなく「水底は」と言い切る。水底にある、或いは沈んだ鐘が鳴り響くのではない。自身の水底に鐘があり、水底が鳴っているのだ。
苑子は「水」が好きである。苑子に限らず、詩人、日本人、生物、皆、水から恩恵を受ける。しかしながら、苑子の詠む「水」はなぜか粘りを持つ。跫音は冴え、水は透明でさらさらと流れ、鐘の音は美しく澄む。だが、苑子の水底に捕まると、それらも清澄なものを湛えながら絡まっていくのである。
下五の「鳴りひびく」が上五の「跫音や」に返り、跫音と鐘の音は、永遠に響き、そして、絡まっていくのであろう。
5. 撃たれても愛のかたちに翅ひらく
苦笑しながら、「お若いあなたは、この句をどう思う?」と聴かれたことがある。しかし、私が答える前に「少々、面映ゆいわ。あんな句が良いなんて。」と、遠くを見ながら言った。おそらく、誰かに絶賛されたのであろう。その時の苑子は、八十歳くらいであったが、その句を作った当時を思い出しながら、私を見ずに遥かを見て、一瞬、一時、その頃に戻ったのだろう。後日、鑑賞する
人妻に春の喇叭が遠く鳴る
について聴かれた時も、そんな瞬間があった。彼女は、時折、そうゆう時間を持っていた。
この句は、非常にストレートで健気である。「愛」に勝てるものはないと断言すればするほど、「翅」の薄さが愛おしくてならなくなる。『水妖詞館』は、62歳刊行だが、編年体ではない句集の為、いつ頃の作品かは解らないが、初期の作品とも思われる。
今回の4句の鑑賞句は、見開きで1頁に2句づつ並べられているが、この4句での物語を感じながら鑑賞することもお勧めしたい。
6. 鴉いま岬を翔ちて陽の裏へ
愛を餌食にしている鴉が「いま岬を翔ちて」次は何処へ行くのか・・・。
「陽の裏」とは、日の当たらない日陰であるのか。不確かでありながら、確かな場所設定よりも「陽の裏」は詩の確信を得る。もとより鴉には「裏」が似合う。
「陽の裏」によって、陽を浴びる岬が浮かびあがり、白波や風も描かれている。そして、「裏」へ入るということは、表の陽を知り尽くし、表にはない別の陽がまた垣間見えるような余韻が残る。
苑子の句は「終り」「底」「裏」と「愛」「陽」などを、同時に直視し提示することで、プラスとマイナス、凹と凸の互いの言葉の交わいが詩を成り立たせている。相反するものを絡ませる技が彼女の身のうちに備わっていたのだろう。詩人の身体感覚は、詩的感覚に繋がっているはずである。
【執筆者紹介】
- 吉村毬子(よしむら・まりこ)
1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
現代俳句協会会員
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