2018年12月28日金曜日

寒極光・虜囚の詠~シベリア抑留体験者の俳句を読む~②  のどか

 Ⅱ シベリア抑留への歴史
 今も地球の何処かで、多くの紛争が起こっている。それは、民族自決のため、宗教をめぐって、国と国との利益のためにと、背景は様々である。
 そして私たち人類は、戦争のための武器や化学兵器、原子爆弾により、罪の無い人々を殺戮し加害者となり、同時に被害者を生み出し、悲しい歴史を繰り返してきた。
 ここでは、私の取材したシベリア抑留の体験者の話をお伝えする前に、その背景となった歴史について学んだことを紹介する。西暦には和暦を()で併記する。
 帝政ロシアが倒されたロシア革命後の1918年(大正7年)、日本はイギリスやアメリカとともに、反革命軍を支持するためソ連領内に出兵した。 
この参戦には、三元老のうち出兵に反対する山縣有朋と出兵に賛成する出兵九博士による「出兵論」なども出され、国内の世論も賛否両論に分かれた。これに対して歌人の与謝野晶子は、『横浜貿易新報』1918年(大正7年)に、「ドイツの東進を法外に誇大して、ドイツの脅威を防ぐために出兵するというのは大義名分にならない、私たち国民は、決してこのような『積極的自衛策』の口実に眩惑されてはならないと諭したという。(『シベリア出兵~近代日本の忘れられた七年戦争』麻田雅文著)

 1918年(大正7年)シベリア出兵開始(日・英陸戦隊、ウラジオストークに上陸開始、ソビエト政権に対する干渉戦争を行った。1922年(大正11年)まで残り、北樺太には、1925年(大正14年)まで駐屯した。(『シベリア抑留関係略史』:シベリア抑留者支援・記録センター)

 ロシア革命の苦しい時期に干渉戦争を挑んだ日本への恨みは、深く残っているという。7年間に及ぶシベリア出兵については、『シベリア出兵~近代日本の忘れられた七年戦争~麻田雅文著』に詳しく書かれている。           

 時を経て、1932年(昭和7年)、中国清朝最後の皇帝溥儀を執政に迎え満州国が建国され、満州への移民政策が始まった。同時に締結された「日満議定書」によって、満州国の国防は関東軍が担当することになった。その満州国とソ連、ソ連の同盟国であるモンゴルの間では、国境紛争が絶えなかった。1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、これまでの移民計画が困難となり、1938年(昭和13年)15歳から19歳までの青少年を中心にした、「満蒙開拓青少年義勇軍」が制度化された。

 1939年(昭和14年)12月に日本と満州帝国が発表した、《満州開拓政策基本要綱》の
中の「基本方針」において、満州開拓の目的が示されている。
 満州開拓政策は、日満両国の一体的重要国策として、東亜新秩序建設のための道義的
大陸政策の拠点を培養確立することを目途とし、特に日本内地人開拓民を中核として、各種開拓民並びに原住民の調和を図り、日満不可分の強化、民族協和の達成、国防力の増強及び産業の振興を記し、かねての農村の更生発展に資することを目的とする。
 満州開拓政策の目的に照らし、小川津根子(元帝京大学教授)は、次のようなかくされたねらいがあったと6点を挙げている。(要約を抜粋する。)
① 満州国の治安維持確立に協力すること~移民の四割が反満抗日軍(匪賊)の活動が活発な地域に配置され、関東軍の討伐の肩代わりをさせた。
② 対ソ戦上の関東軍の補助協力にあたること~移民の五割がソ満国境最前線地帯に配備され、関東軍の軍事補助者として有事に備えた。
③ 満鉄沿線・重要河川の沿線・軍用鉄道を守る
④ 満州重工業地帯の防衛
⑤ 大和民族を中心とした「五族協和」の実を上げる。
⑥ 国内の社会不安を和らげるため農村経済更生計画に開拓移民を組み入れた。
(『大陸の花嫁からの手紙』後藤和雄著)
 五族協和とは、日本人、朝鮮人、満州人、蒙古人、漢人の協和と西欧列強の武力による侵略に対し、東洋の徳「王道」による理想郷を歌ったものである。

 一方、日中戦争が泥沼化し、対英米関係も悪化して閉塞感のある日本と、西はドイツ
東は日本との二面作戦を避けたいソ連は、1941年(昭和16年)4月13日、5年間にわたる日ソ中立条約を締結した。同6月22日ドイツ軍がソ連侵攻。この国際情勢の変化を受けて、日本政府と軍部は、7月2日に天皇陛下が臨席する「御前会議」を開き「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定し独ソ戦が日本に有利に働いた場合はソ連と戦うことを決めた。この決定に基づき、陸軍は対ソ連戦準備のために満州に展開する関東軍を70万人に増強した。名目は、「関東軍特種演習」(関特演)という演習だった。ドイツの侵攻は日本が期待したほど進まなかった。参謀本部は、ソ連への侵攻をいったん諦めた。(『シベリア抑留―未完の悲劇』栗原俊雄著) 

 1945年(昭和20年)2月4日ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談において対独ソ戦後処理及びソ連の対日参戦を決定。同4月5日ソ連は、日ソ中立条約の不延長を通告した。
 しかし、一年間は有効だったので国際法上明らかな条約違反である。同5月7日ドイツ軍は無条件降伏をする。当時、日本軍は、満州に駐屯していた関東軍を戦況の悪化する南方戦線に送っていたため、同7月5日関東軍の兵力増強の必要から、大本営は満州の在留邦人に「根こそぎ動員」をかける。(『シベリア抑留関係略史』:シベリア抑留者支援・記録センター)
 1945年(昭和20年)夏、関東軍は18歳から45歳までの在満邦人男子約20万人を召集。召集令状には、「各自必ず武器となる出刃包丁類及びビール瓶2本を携帯すべし」と記されていたという。出刃包丁は、棒の先に付けて槍の代わりに、ビール瓶は、火炎瓶として使うために。(『シベリア抑留~未完の悲劇~』栗原俊雄著)
 同8月6日アメリカにより広島へ原爆投下。8月8日ソ連は日本へ宣戦布告。8月9日零時ソ連軍の侵攻が始まったのである。

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