2018年12月28日金曜日

【読みきり】「たとえ僕らの骨が諸刃の刃だとしても ~竹岡一郎句集「けものの苗」を読んで~」豊里友行

 竹岡一郎句集「けものの苗」を何度も読み込む。
 戦争を突き詰めていうなら戦争を構築する世界の社会全体のみんなが悪いと私は、思う。
 どんなに社会の一人が戦争の種を萌えだすのを食い止めようとしても社会全体の海原が、その方向へと動き出さない事には、戦争は食い止められないのではないか。
 例えるなら海の波ひとつのベクトルは無数に違うのだが、非戦の風を起こすには、やはり竹岡一郎のこの句にある僕の加害者意識を自覚することからしか始まらないのではなないか。
 私には、竹岡一郎俳句に、とても共鳴し、心が震える句がある。
 「僕の骨から要るだけの弾は萌ゆ」など。
 私たちは、「僕の骨」を意識しているだろうか。
 私たちは、私たちの無自覚さが、戦争を芽生えさせる。
 私たちは、私たちの無関心さが、ミサイルや弾丸を繁殖させる。
 人間に必要な、要るだけの弾は萌える。
 竹岡は云う。
 「なつかしいものは、いつだって惨たらしい。産土も人間も積み上がった惨たらしさを抱えて、だからこそ、その惨たらしさを焼き尽くし、なつかしさを遠く離れ、生き変わり死に変わりを超えて、立ちたい。」(あとがきより)。
 その作者の立つ視座は、何処に芽生えているのか。
 産土とは、うぶすな。
 その人の生まれた土地や育まれた環境を指していると私は解釈してみる。
 私たちは、自己の根っ子や人間さえ否定していかなければならないのか。
 人類の愚行である戦争や軍隊、原発、環境破壊、核の時代をどのように食い止めるか。
 人間の愚行は、私たち人間によって悔いあらためるしかないのではないか。
 現代人の情報化社会や文明の迅速に大量の選択が枝葉を伸ばし、快適さは無尽蔵に増幅する。
 私たちは、やがて想像力の翼を捥がれ、他者への痛みを忘れがちになる。
 竹岡一郎俳句には、無痛の思考停止した現代人や身体感覚の麻痺する数値世界に生きながらも戦争への批評眼を内蔵している。
 批評する刃は自己に向きながらも諸刃の刃として他者にも向けられている。
 大概の俳句においては、社会に対して傍観者の視座が大量生産されている。
 人類は、どこかで血や肉を超えて呼び合って地球家族としての僕らの骨を自覚する必要があるのではないか。
  人間は、憎しみの連鎖を断ち、僕らの骨の痛みを知る。
  私は、俳人たちが心の通い合う地球を創造することができると信じたい。
 そんな作者の視座は平穏ではないかもしれない。
  新たな俳句の地平線を手繰り寄せるように、のたうち廻り這いつくばって生涯をかけて、その答えを新たな俳句によって問い続けている。


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