話を少し脇道へ遣るとして、映画「ブレードランナー」的な、繁栄栄華の後に待っているのは清潔な、完璧に整理・管理された世界ではなく、猥雑で雑多な「ゴミ溜め」のような世界である、という近未来感は二〇世紀的な感覚であり、またモダニズムの徒花としての指向、終末感覚だったと個人的に思っている。
「けものの苗」の世界はそういった混沌に近しくありながら、土俗的な事象も取り込まれ、さらに有機物と無機物の別もなく、生死の境界、彼岸と此岸の境界、神とそれ以外の境界すら曖昧な、全方向での総力戦と呼びたい様相を呈している。
咒を誦(ず)せば磯巾着の絞まり出す「蛭の履歴」
洞窟や太き触手の元気な朱夏「無垢といふこと」
北極を溶かし続くは鯤(こん)の息「無垢といふこと」
澪照らし合ふや鵜舟とうつほ舟「バチあたり兄さん」
大蟹が自重に砕けつつ這へる「なべてあの世の僕の梨」
一句目は陰陽師や術者のようなものを思い浮かべればよいのだろうか。文言を唱えられ苦悶するのは磯巾着である。二句目、夏天のもと、洞窟からなにかの触手が溢れんばかりに湧き蠢いている。とても元気なのだという。三句目、「鯤」は古代中国の想像上の大魚。北方の海に生息するとされる、その息が氷河を溶かしている。四句目、「うつほ舟」は丸木をくりぬいて作られた舟のことをいうが、多くは女性が乗せて流された舟として古典に登場するものである。そんな舟と鵜飼いの舟が互いの水脈を手燭で照らし合うという、かなしく、且つコケティッシュな情景だ。五句目、大きさゆえに重力に逆らえず自壊しながら這う蟹。生き物と呼ぶには酷いところを簡潔に書いている。
皆それぞれの暴力性にさらされながら、必死に生きている。必死というほかない描写の連続に目眩が誘われるが、どうにもこれは遠い世界のことを言っているのでもなく、想像に遊んでいるのでもない。アニミズムと締めくくってしまうのは、それも違う気がする。ここでいう「世界全体」には河童、人魚、狐などのあやかしから戦争も兵器も議事堂も、地獄などの他界も平等に含まれ、渾然としているのだろう、というよりほかはない。
僕なる黝(くろ)い穴へ白鳥矢継ぎ早「極私的十三歳」
喉に狐火つまらせ今日もまだ人だ
そんな無常の世間において、「僕」はどうやら「黝い穴」や狐の子(「狐わらし」という章がある)など、末端、異端として存在しているものとして自覚されている。掲句二句目など、人でいることの韜晦がにじんでいる。この世の現状はある種「人間至上主義」とも呼べる状態だと筆者は思うのだが、「僕」はそうした驕りからは遠い、どちらかといえば無力な存在として提示されているのが興味深い。
雷を共に怖がるひと欲しい「ラヴラヴフランケンシュタイン」
まづ臠(ししむら)つぎに霊(たま)容れ冷蔵庫
極北に空く冷蔵庫 次の進化
フランケンシュタインを主題とした章から引いた。一句目、つねに怖がられる存在であるフランケンシュタインの、切ない内面が吐露されている。二句目、死体を材料として作られたため、腐敗を忌避するためには冷蔵庫に保管されなければならない。地面の下と冷蔵庫、温度はともかく、より冷えているのはどちらだろうか。三句目はフランケンシュタインが逃亡した「空の冷蔵庫」に続き「次の進化」が提示されている。人造人間がさらに進化したとして、それはどんなものになるだろう。
殴られすぎて音楽になる雪か「極私的十三歳」
集中から、筆者がもっとも好きな句をひいた。「殴られすぎて」、拳をふるわれる回数が多くて、殴打音がリズミカルだった、というふうに句意を取ることも可能であるが(その場合結句の「雪」が俳句的な「私」の代替物とも読めるが)、「私」が雪に降り込められているさまと読むと、途端に花鳥諷詠となり、実体を排した句として読むと、強固な前衛句として「立つ」ものである。
作者はあとがきを「(前略)その惨たらしさを焼き尽くし、なつかしさを遠く離れ、生き変わり死に変わりを超えて、立ちたい。」と締めくくっている。集中には見事に「立つ」句があらわれている。唯一無二の錬成を繰り広げる作者の立句を、今後も注視していきたい。
月の裏では王たちを氷責
長夜の手招き遮断機が上がらない
夕虹も腕もねぢられるためにあつた
木耳のはばたく音に囲まるる
革命は蛸である神はまだ無い
鮫の背骨が折れてることは言はないで
天井に包丁吊つて冴えて安心
すき焼きに戦後の夢が煮詰まりぬ
吹き飛ばされた四肢べつべつに花へ這ふ
心臓がとろけて桜しか見えぬ
舟として地獄に灯る夏布団
春昼をさまよふロバのパン屋かな
『けものの苗』ふらんす堂/2018年10月刊
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