2013年6月21日金曜日

赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

街空さわぐ屠場にうかぶ濡れた蛸   『虚像』

これこそ場末の風景である。屠場、すなわち屠殺場は今では「食肉処理センター」などと血の匂いのしない名称に改められているが、要は牛や豚を殺す場所である。当然町外れ、つまり場末に位置し決して中心街にはない。「街空さわぐ」のは鴉でも集まって来るのか、それとも屠殺される家畜達の阿鼻叫喚の声なのか。いずれにせよ不吉だ。

阿鼻叫喚と書いたが、昔は知らず、今は家畜を気絶させ意識を失わせてから頸動脈を切って失血死させるらしい。一瞬で死ぬ方法を取らないのは、そうすると体内、特に筋肉に血液が残ったままになるからで、肉の中に血が残ると味や品質が低下するのだそうだ。意識のない状態で血を抜かれるから別に騒ぎはしない。鳴き叫ぶのはむしろ屠殺場に連れて行かれる者たちである。もちろんこれから自分が殺されると知って恐怖におののいている筈などはない。ただ無理矢理引かれていくことに対して鳴いているだけだ。殺されるとか怖ろしいという意識や知能はない筈だ。それがあるかのように書いたりするのは同情を引くための動物愛護家の欺瞞であろう。

話が逸れた。兜子は感情のかけらも示さず淡々と屠殺場の風景を描く。問題は「蛸」の存在。何故屠殺場に蛸がいるのか?屠殺というのは家畜、つまり獣を殺すことであって魚や、況して軟体動物に対しては用いない言葉である。だからこの蛸は偶々そこにいたのか、或いは屠殺場の従業員が持ち込んだのだろう。「濡れた蛸」とあるだけで生きているのか死んでいるのか分らないが「うかぶ」という表現からは死んでいるように思われる。食料として持って来られたか、海が近いので紛れこんできたか、いずれにせよ屠殺場の水のたまった場所に蛸が浮いているのである。屠殺による血の匂いに加えて蛸の放ついその匂い、海の生物の匂いが漂っている。

こんな美しくも心地よくもない風景、場所、出来事を俳句にしようと思った当時の兜子の真意が知りたいものだ。

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