昭和32年の作品である(注①)。圭之介は画家でもあったのでこの自画像は現実に制作中のものであったものかも知れないし、ふとその制作過程で疲れた眼を関門海峡に向けた際の光景とも考えられる。そして「碧」とは濃青緑色というふかいあお色を指しており、その海の碧さが自画像の陰翳の深さへも反映されているとも。しかしこの自画像はやはり心象的なものではないか。その方が「未完」という言葉の重みが認識され、海の碧と対置された存在になるであろうから。その事は既出(第6回「色」)の下記の句からも類推されよう。
自画像青い絵の具で蝶は塗りこめておく 昭和41年作 注①
「青い」とは若さ、未熟という意も含んでおり、それ故この自画像もある意味で「未完」という意を包含しているのであろう。そして掲句は心酔していたコクトーの下記の詩に触発されて書かれたものかもしれない。
<自画像>抜 コクトー 堀口大學訳
神秘の事故、天の誤算、
僕がそれを利用したのは事実だ。
それが僕の詩の全部だ、つまり僕は
不可視<君らにとっての不可視>を敷写するわけだ。
僕は言った、《声を立てても無駄だ、手をあげろー!》
非情な衣裳で仮装した犯罪に向って。
死の手管は裏切りが僕に知らせる。
僕の青インクを彼らに注ぎ込んで
幽霊どもを忽ち青い樹木に変えてみせた。
「青」をコクトーは積極的にインクで、圭之介はやや消極的に絵の具で不可視のものへ塗り込め、それを自画像と一体化していったように思われる。
砲口に道化 地球は限りなく青くはない 昭和59年作 注①
この場合の「青」は心理的な透明感を示唆しており、道化は地球の危うさをイロニーに暗示しているかのように見える。
島に寄る航路の女青い夕映えをもつ 昭和40年作 注①
この島は小さな島かもしれない。舷側に佇む女のドラマが抱え込んでいる青い夕映えとは何であろう。ランボーも「夏の夕ぐれ青い頃」(堀口大學・訳:注②)や「蒼き夏の夜や」(永井荷風・訳:注②)とボヘミアンを詠っていたが、何故かその女も同じような思いに浸っていたのではなかろうか。
注① :「ケイノスケ句抄」 層雲社 昭和61年刊
注② :ランボー <感触> 堀口大學・訳 新潮文庫
<そぞろあるき> 永井荷風・訳 『珊瑚集』文春文庫
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