2025年6月13日金曜日

【連載】現代評論研究:第9回総論・戦後俳句史を読む(私性④)

(投稿日:2011年08月27日)


堀本:「固有のモチーフー私性」という言い方について補足する。「私性」とか「社会性」とか「詩性」等という、モチーフの一つと言う意味である。

 私は、じつは俳句でも川柳でも「存在の詩」として役割を思うので、通俗になったり自己目的化されるのは困るが、「私」と言う時空が、依然として詩の坩堝である、という考えを捨てきれないのである。波郷の境涯俳句なんか、いいなあ、と思う。川柳がそれを捨てとしたら、・・どうなるのか。

「川柳の先端では、私性の絶対性(言いかえれば、川柳の近代的個)が相対化されるという過程にさしかかりつつあるというのが現状である。」(吉澤)

 この辺りの展開の切実さは大変よくわかる。吉澤たちの真摯さを感じる詩、問題意識は正当であろう。言語世界総体のどこに切りこみ表現へ転換するか、と言うところから考えれば、本人の選択と追究の方法は自由なのである。近代文学に大きな意義をもたらした「私」追究の方法、も極限に来ている、と言うことだろうか?


筑紫:私性をめぐっては4回目に及んだ。そろそろ結び(そんなものがあるのか不明?)に近づいたようだ。議論の手順であるが、何かアプリオリに「私性」があるというと形而上学に陥りそうな気がする。社会性俳句が発生し、前衛俳句が発生し、風土俳句が発生したように、私性が川柳ではいつ発生し、俳句ではいつ発生したか、それがどのように変成したかからスタートしたほうがよいように思われる。吉澤の3段階説はそれはそれでなるほどと思えるが、俳句にはそうした段階はなかったように思われる。そもそも「私性」などという意識そのものがなかったのかもしれない。手じかな俳句用語辞典を見ても「私性」は見当たらない。「私性」を意識した俳人もいなかったのではないか。変な例になるが、前衛俳句が存在しない場合の前衛俳句とは何なのかはきわめて奇妙な質問となるであろうがこれに近いかもしれない。「私性」も同様である。「私性」のまがい物として境涯やエロスがあるのかもしれない、「反私性」の超越として安井浩司があるのかもしれない。川柳で生まれた私性を、あまり無批判に俳句に導入しないで、俳人(前回の私も含めて)は何に翻訳して私性として理解したのか、反省してみることの方が早道のような気がする。


吉澤:川柳における「私性」が俳句にそのまま当てはまらないのは当然だろう。「私性」というものを〈作者が自分のことを語ること〉あるいは〈作者と作中主体との関係〉という見方でとらえると、俳句についてこんなことを思う。

 たれ付けて串カツ重し夏の暮れ        榮猿丸

 フライドポテトの尖にケチャップ草萌ゆる

 紫陽花や流離にとほき靴の艶         小川軽舟

 岩山の岩押しあへる朧かな

 この二人の句を比べた場合、榮の句では、たれの付いた串カツを見ている具体的な主体(これが作者であるか、作中主体であるかはとりあえず保留)の存在が鮮明に感じられるのに対して、小川の句には見ている主体の存在がほとんど感じられないのである。榮の句に対するさいばら天気の小論の題が「外部から『俳句』の内部へ」ということであり、小川の句に対する関悦史の小論の題が「型に依る醒めた物狂い」であることは、何か示唆的ではないだろうか。いわば〈中心と周縁〉という対比に見えるのである(「中心」と「周縁」は方法の差であって、価値の優劣ではない)。榮と小川は、俳句という形式と歴史の集積に対して、今ここに生きている一人の作者として対峙している点では同じなのだが、見ている主体(あるいは見ている作者)の扱い方の差が、はからずも二人の評者の小論に対照的に表れているように思える。


筑紫:吉澤の言うところは確かに感じなくはない。しかし、季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか。この二人と対比するには、栄の師であり、小川の兄貴分にあたる(いわゆる俳人の好きな師系に属する)小澤實を見てみるのも面白い。

 ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな

 夏芝居監物某出てすぐ死

 ふはふはのふくろふの子のふかれをり

 いのししのこども三匹いつもいつしよ

 小沢の流儀は、「私」を消去して、境涯もなく、季語の調和によって逆に「主体性」を主張していることだ。ここであえてこの句を取り上げたのは、吉澤のあげた、榮、小川の句は後世に残るかどうかは全く不明であるのに対し、小澤のこれらの句は既に現代の古典としての位置づけを得ていると考えられるからである。何れにしても、ここの俳句ではばらついているように見える方向性が、全体から見たときに現代俳句にあっては、反私性へ、反私性へと向かっているように見えるのである。


堀本:話は戻るが、現代俳句で、前近代の結社の制度や主宰の添削法が崩れつつあるからといっても、やはりすぐれた先輩を中心にした私塾のようなグループが出来てくるのは従来とおなじである。同人誌でも、作品を中心に、また気のあった者同士、広く組織力編集力を中心にする・・かの違いはあるが、いずれも、私性とか個性の標準は一般社会の常識のセンに従っていると思う。つまり現代俳句では、改めて私性を標榜する必要はないのであり、言語領域と生活の領域が地続きになっている、そういう事態なのだと思う。「私」も、ここではモチーフとしてはひとつの仮構なのである。 

 筑紫磐井が「私は読者を意識した女性俳句を劇場型俳句と呼んでみた」と言っている。これは面白い指摘だ。

 俳句には短歌のような自己言及性がない、俳句で自分を語ることは不可能だ、と言ったのは「京大俳句」時代の上野ちづこであるが、それはある意味で正しい。言う必要がない、とも言いうるのだが、しかるになぜ女性だけが女性性(私性)を注目され、その周辺で毀誉褒貶の評価を受けてきたのだろう。

 時実新子はもちろん、俳句の若い女性、柴田千晶や、田中亜美の作風にもでているようなエロスは今後も断続的に追究されるはずだ。また、男性からの母性や女性性という全人的なものへの幻想がある限り、女性俳句に於ける「私性」という劇場のテーマはなくなることはないだろう。


筑紫:短歌では、「おんなうた」が盛んに喧伝されたが、俳句ではこうしたことはなかった。女流俳人の時代というのは、俳句の担い手が女性になってきたということであり、俳句の本質に女性的なものが提言されたわけではないだろう。

 私性俳句はないと思うが、劇場型俳句はあり得ると思う。もし堀本に賛同してもらえるなら、私性俳句・川柳を劇場型俳句・川柳と言い換えられれば、主体の問題も新しい見方を加えられるのではないか。劇場のなかでは、女優個人、役柄上の(生身の)主人公、脚本上の(抽象的な)主人公はそれぞれに違っている。

 さらに劇評(このような評論がそれに当たろう)で批判される女優や演じられた主人公もまた異なる。役柄に興奮して女優に恋したり、舞台の役者に憎たらしさのあまり切りつけたりする勘違いはいつの時代にでもあることなのだ。だから時実新子を演じている大野恵美子が、時折役柄に不満を感じることは十分ありえると思う。それは劇場型川柳の宿命だ。しかし、鈴木六林男を演じている鈴木次郎がいて役柄に不満を感じる、ということは考えにくい。六林男俳句は劇場型俳句ではなく、全人格俳句であるからだ。


堀本 :「私性」は戦後文学の重要な規範であるが、必ずしも現在の凡ての表現者やすべてのジャンルの主要なカテゴリーではない。俳句で女性性の問題を対象化する時も、橋本多佳子や三橋鷹女のエロス性もでも「劇的」と考える方がわかりやすいかも。いちど試行してみてもいい。しかし、これは、過渡的な分析用語だとも思う。

 「私性俳句」「女性俳句」というのも、たしかに、便宜的に出てきている。むしろ存在不可能な俳句だ。本質的ではないにもかかわらず、それについての強烈な関心があると、いくつか次元の錯覚をおこるときがある、それ自体が人性の面白さであり、文学的テーマになりうる。


北村:私性というのは私にも慣れない言葉だが、これを私のなじんでいる(つまりかなり昔から活躍している)現代詩人で考えると、まず伊藤比呂美、彼女の詩の場合は、機関車のように進行する私があって、その体当たりで次々発見されていく世界は、彼女が作り出したもののように私的である。作者と作中人物に加えて世界までも彼女のものである。筑紫の言葉で言う全人格詩の極端な例であろう。

 粕谷栄市の詩では、一見作中人物は作者とも読者ともまったく異なる時代と環境に虫けらのように住み、画然と分離しているように見える。しかしその世界は、まさしく作者の世界の実感であり、彼の日常なのであると見られる。作者と作中主体は浸透し合っており、全人格の詩というよりも、作者の人格自体のシフトがなされている感がある。

俳句では

 裸体なる夫婦がわれを捌くが見え  関悦史(セレクション俳人 プラス 新撰21)

など、そうした自己を異界に移す要素を感じさせるが、一句単作で読み取ることはやや困難である。永田耕衣の作を続けて読めば、彼の主体の東洋的楽土への拡大・溶融が感じられるだろうか。

 いずれにしても「私」というものを、そう単純なものに留めたくないものだ。

 ところで、吉澤が第七回の2で挙げた先端の川柳では、言語はばらばらで文意は不明である 。したがって、そもそもの作中主体なるものが不明である。すると逆にそれを作品として押し出した作者が強く意識されることになる。

 これらに対して筑紫は、俳句では「技巧・技法万能主義」が最近のトレンドであるとする。(このことに対する筑紫の価値判断はアンビヴァレントで単純・直裁ではない。第六回の2参照のこと。)この俳句の姿勢は言語の伝統を駆使するものであり、言語の歴史的共同性に依拠する。また主題性よりもニュアンスが重視される。第七回の2で堀本の述べるように、俳句においては破壊的な試みの時代は一段落しているということか。

 吉澤の言う、大会で「抜ける」ことが目標の川柳と、結社雑誌の中で主宰の価値に沿おうとする俳句、両分野のこれまでの歴史の差も重要なポイントだね。。


吉澤:大会で「抜ける」ことを目指さない川柳人が、ごくわずかであるが現れ始めている。「23ページのメロン図について(森茂俊)」と「カモメ笑うもっともっと鴎外(小池正博)」は大会の特選吟であるが、「ララランリリリンララルラ曲がり切りなさい(兵頭全郎)」は同人誌の雑詠欄の投句である。どの句も言語実験的ニュアンスが濃厚であるが、大会で上記のような句が抜けるかどうかは、ひとえに選者が誰であるかによる。「言語はばらばらで文意は不明である」(北村)ような句を拾える選者は、残念ながら川柳界に多くはない。そういう事情が、「抜ける」ことを目指さない川柳人を生んだのではないかと思われる。


堀本:その人達がなぜ、それなのに、「川柳大会」という発表形式にこだわっていることについて、もうすこし、吉澤の意見を聞きたい。(「川柳大会」の古めかしいしかし愉しい演劇性、様式性はなかなか見ものであり、この雰囲気にはまるといきいきしてくる川柳人の遊び方は愉しい。でも、このトポスは、こういう形で継続するのだろうか?)


吉澤:理由は楽しいからだ。大会は一種のお祭りである。久しぶりの人とも出会えるし。もちろん研鑽の場でもあるが。あの楽しさがある限り、大会は続くだろう。ただ、句会大会を好まない川柳人もいる。


堀本:わりあい趣味で動いているのか。


吉澤:趣味という言葉でくくってしまうと語弊がある。研鑽や勉強の場と考えて参加している人もたくさんいるし、例えば亡くなった定金冬二は句会は戦いだと言っていたらしい。


堀本: 俳句では、実験作は、句集形式それもかなり私家版的意味合いをこめた少部数、少人数の同人誌を基盤としてきた。作品の方法は普遍をめざしむろん世に問うものであるが、作家の態度は、私性というか個の独在に賭けるとことがあった。だから、ある時期が過ぎれば、句集を出し、欲を言えば作家として生活がなりたつ市場も欲している。これも俳句の特性ではなく、時代的な特性だと思う。俳句史は、(川柳史も)表現史を中心として構成されるべきであるとともに、作家の生活史、それを流通させる流通の場が検証が可能にもなる。

 俳句表現の転換の兆しは1970以後の俳句ニューウエーブのころから目立ってきた。

 30年前、攝津幸彦は、早くから前衛実験に手をそめ、最も早い時期に伝統的な俳諧性を取り入れて、むしろ大成功した。坪内稔典は、俳句の文学的完結性を自己否定した。前世紀末ニューウエーブの異端中の異端上野ちづこは、私性の問題を思想的に突き詰めて、俳句の外に出て行き、江里明彦は批評性を盛り込んだ社会性(意味世界の構築)を取り入れることで、かろうじて俳句の側から境界に接している。「第三期京大俳句」の幕を閉じたこの二人の文学的な軌跡は、現在の川柳のモダニズム運動の行方と重ね合わせて私から見れば示唆に富んでいるような気がする。夏石番矢は、ある意味ではもっとも詩に近い言語領域を俳句の方法で渉猟した。

 川柳の現段階をあまり離れると議論が混乱するので、これはこの位にしておく。

 現在では、俳句甲子園の台頭が若者達の古典帰りを目立たせている。形は一般的な俳句形式を踏襲しながら、先端性を誇っている理由は、対象世界を摑む感性のあり方によるのだろうけれど、これが表現の現段階でに意義付けのむづかしいところである。

 川柳のもっとも若手が、脱川柳=と見まがう、意味の攪乱をめざしている方向とはすこし違うような気がする。俳句の新世代はじつに体制的なのである。


北村:私性をもう少し私の土俵に近づけて考えてみる。「作者」は自明として、そもそも「作中主体」とは何か。一応作品の中の主語のことであろう。日常詠に終止する人生・生活短歌や、風刺・滑稽を旨とする古典的あるいは時事川柳等はいざ知らず、人は他人に、悪人に、死者に、動物に、ものに、と何にでも自己を仮託できる。

 さらに難儀なことは、自己と世界の境界が定かでないというポストモダン的考え方も成立する。個というものは、便宜的なフレームとして形成される概念なのではないか。(私は実は強固な個人主義者であったのだが、このシリーズで俳句を勉強するうちに、呆けが進行して個人概念にメルトダウンの兆候が見られる。)

 吉澤が「川柳の一部では、このように「直接的に」何かに結び付けにくい句も書かれている。仮にこれらが喩であるとしたら、狭い意味の喩ではなく、世界そのもののありようの喩とでもいうべきだろう」として挙げている石部明や清水かおりも、自己と世界の境界を取払うことにより、川柳の従来の狭かった私性の論議を抜け出している。

 第3回の2で触れた後期の齋藤玄の句には、作中主体は風景であろうか。それを見る死者のまなざしが感じられるが、それは作者と作中主体の中間物とも言える。

 安井浩司の句においては、原初的で崇高さを感じさせる行為を纏う作中主体。それを見る視点は超越的にも見える。「こまめに近距離のもののみを撃つ(中略)昨今の俳句」を不幸とし、「射るべき魂は遙かに遠いところに在る」(『海辺のアポリア』「渇仰のはて」)とする。これは筑紫の指摘する技巧・技法の句の時代に対するアンチテーゼである。

 月光射して水霧となれる厠妻         『句篇』

 老農ひとり男糞女糞を混ぜる春    安井浩司『句篇』

 TOTO、INAXの時代の人が厠妻の句を受けとめうるのか不明だが、母屋から離れて野山に向かって立つ厠の記憶を持つ私には、実在を越えた絶景となる。後者、

 見渡せば柳桜をこき混ぜて都ぞ春の錦なりける  素性法師『古今和歌集』

を連想するが、はるかに啓示的である。主体は自然の点景に回収されて聖性を帯びるのである。

 河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。「私」は宇宙なのである。純粋培養されている点で、浩司との違いがあるが。

 枇杷男忌や色もて余しゐる桃も    河原枇杷男『蝶座』  (色=しき)

 昼深し身に飼ふ梟また啼くも          『鳥宙論』

 これらの俳人は、素朴な意味での私性の埒外で世界に共振し、黙示録を目指すかに見える。かくして、時代の趨勢には背くが、「私性」というテーマには歴史的な意味しか無く、そこから踏み出さないと私には面白い話は始まらないと考える。


吉澤:この鼎談を通じて思ったことをいくつかあげて、締めくくりとしたい。

 川柳と俳句では、結社や句集、大会のあり方などは違っているが、共通点もたくさんあった。堀本があげたように、俳句でも川柳でも言葉の意味を霍乱するような試行がなされていること、時実新子と女流俳人との書き方が同じ質のものであること、などである。筑紫の「劇場型俳句・川柳」という整理の仕方は、川柳の「私性」を考える時に有効なヒントになる。

 相違点に戻るが、川柳と俳句の違いはやはり季語だと再確認したことである。「私性」との関連で言うと、筑紫の「季語「夏の暮れ」「草萌ゆる」「紫陽花」「朧」によって多かれ少なかれ主体性は剥がされているのではなかろうか」という指摘は示唆的だった。どのような方法で(例えば、主体性を剥がす、劇場型であることを意識して書く)書いたり読んだりするのか。これは技巧・技術の問題であるとともに、川柳観・俳句観の問題でもある。そういう二面性を持っている。

 私性川柳・俳句でも二種類ある。作者の個人的な事情に還元されて閉じてしまう句と、作者の個人的な事情に根ざしていながら読者個人個人の問題になってくる句とがある。北村の「河原枇杷男においても、私性は一筋縄ではない。『私』は宇宙なのである」という意見はそのことと関連していると思う。ここには、一句の授受はどのようになされるのかという重要な問題がある。

 他のジャンル(?)を知ることは、自分のジャンルについて考えることでもある。四回の鼎談を通じて、多くの刺激をもらったことを感謝している。

(今回をもって吉澤良久さんは、一身上の都合で退会されます。短い期間ではありましたが、濃密なご協力に感謝申し上げます。)