2025年6月27日金曜日

【新連載】新現代評論研究:『天狼』つれづれ(3)『天狼』創刊に際し/米田恵子

  前回の「『天狼』創刊号の『こほろぎ』」で、主宰山口誓子の「実作者の言葉」は「昭和42年11月まで続く」と書いてしまったが、これは誤りであった。創刊号(昭和23年1月号)から昭和25年12月まで続き、その後一時中断し昭和31年2月号から復活する。これは、ちょうど、編集長が山口誓子から平畑静塔に移った時であり、静塔の配慮により復活したのである。

 とかく雑誌を出版するには、編集長を誰にするかは重要なことであろう。『天狼』の場合、編集長に西東三鬼がなることは、誓子の句帖の昭和22年6月15日に書かれているように、創刊の半年前には決まっていたようである。

  一、山口誓子氏顧問とす(作品並びに文章を書く)

  二、同人を限定し、その力作を選抜発表

  三、西東三鬼氏を編輯者とす 

 創刊に関して西東三鬼が動いたことは確かであり、出版社である養徳社との交渉、用紙の手配に関しては鈴木六林男との折衝など、関西と東京を往復しての活躍は、四日市市で静養している誓子にはできないことであり、三鬼の働きなしでは『天狼』は生まれなかったであろう。

 世間では待ち望まれていた誓子の『天狼』創刊であるが、実際には遅刊や、ついには合併号となる事態に陥っていた。一応、前月の「二十日印刷」その月の「一日発行」となっているが、実際は遅れたり、昭和23年8月と9月は合併号となってしまったりした。この危うい状態は、その後も続き昭和24年7月8月も合併号となってしまった。結局、これではいけないということで、昭和24年11月の編集後記には、三鬼と誓子の共同編輯となり、誓子が運転台に立ち、三鬼が車掌になって『天狼』を運営していくと述べている。しかし、ついに、昭和25年5月、『天狼』の発行所が養徳社から天狼俳句会に変わることを機に、編集も三鬼から誓子へと替わった。また、一般読者の投句も3句から5句へとなった。

 この編集長の交替について、誰も述べていないので、以下は私の推測となる。西東三鬼は、戦後すぐに新俳句人連盟(昭和21年)を結成したことなどから、人を集めたり何かを計画したりというようなことには長けていたと思われる。

 ここに誓子と鼓ヶ浦(当時住んでいた鈴鹿市)で昭和24年に写した写真がある。後ろに手をまわし直立不動に近い和服姿の誓子と、口髭に銀縁の眼鏡、三つ揃いのスーツを着こなし、右手に長めのフィルターパイプをつけた煙草を持ち、左手をズボンのポケットに入れ斜に立つ姿はダンディとしか言いようがない。そんな三鬼の性格は社交的で、おそらく誓子とは正反対と思われる。誓子は真面目で几帳面な性格である。雑誌の編集には、やはり真面目で几帳面な性格が向くのであろう。結局、他の同人たちも本業があり、比較的時間のあるのは療養中の誓子であるため、編集を担当せざるを得なくなったのだと推測する。

 しかし、誓子といえども、療養中であり、病状は順調に快方に向かっているとも断言できない状態なのである。お気づきの方もあると思うが、句帖に書かれている「一、山口誓子氏顧問とす」というメモに引っかかるのではないだろうか。昭和22年6月15日の句帖の同じ頁には、おそらく『天狼』創刊に際し、解決しておかなければならない6つの重要事項と思われるメモがある。それは順に書くと「健康のこと」「対馬馬醉木のこと」「編輯人のこと」「内部融和のこと」「時期のこと」「資金、用紙、印刷のこと」である。1番初めにあるのが「健康のこと」なのである。しかしこれ以外の項目は雑誌創刊に必須のことであろう。

 誓子は、『馬醉木』の同人であり、主宰の水原秋桜子に『天狼』創刊を理解してもらわねばならないであろうし、編集も大事な仕事である。創刊同人は、有季定型の誓子に対し、無季俳句も作っていた『京大俳句』の会員も多く、内部の統一もはからねばならないであろう。また、出版の時期と資金、用紙、印刷所のことなど(私などはこれが先決問題だと思うが)は出版に関しての当然の心配事であるが、誓子にとっては何よりも第一に気にかかることは「健康のこと」だったのである。西東三鬼や平畑静塔には「主宰に」と言われていただろうが、内心誓子は主宰として結社を背負っていくことに対し健康面で自信がなかったようである。だから、自嘲気味に(?)、少しふざけて(?)、ユーモアをこめて(?)、「山口誓子氏顧問とす」と書いたのではないかと私は推測する。

 いずれにしろ、『天狼』は山口誓子主宰で昭和23年1月創刊された。