(投稿日:2011年08月27日)
●―1近木圭之介の句/藤田踏青
海から河童落葉のような魚をつる
芥川龍之介の「河童」(昭和2年)は、すべてが人間社会と逆の河童の国の話で、当時の日本社会、人間社会を痛烈に風刺、批判した小説である。そして副題には「どうかKappaと発音して下さい。」という不可解な文章が挿入されている。確かにその語音から、異様な形態と水神の零落した姿へとすぐに想いが至る。
さて掲句は「ケイノスケ句抄」所収の<妖童記>の昭和22年の連作の一句である。この場合の河童は明らかに作者の自己戯画化であり、自画像の一つの表出方法である。精神が肉体、物質に対する心、魂、知性、理性を表すものであるのなら、芥川の小説のように河童としての自己存在がその代替装置となり、現実社会に於ける疎外感の中で抱く虚無が大きく口を開いてくるように思われる。戦争も終り、当時「層雲」の中堅としての地位を確立していた圭之介ではあったが、日々の生活には悶々としたものがあったのではないか。そして「河童」と「落葉のような魚」とはいつでも逆転可能な存在位置にあり、「落葉のような」という比喩はシダの葉で頭をなでると人間に化ける事が出来るという河童に擬した自己をも暗示しているかの如くである。
「かっぱ」
人生に疲れた詩人がおった
石の上で休息していた
ある日 魔王が不びんな奴だと
奇蹟の水をしたたらせた
すると 一匹のかっぱになった
上掲の詩は「近木圭之介詩抄」所収の昭和26年の作であるが、当時の圭之介の心境をそれらから類推することが出来、それが連作の句の背景ともなっていたのであろう。連作の一部をあげてみよう。
孤独のかっぱの月の出た顔である 昭和22年
月をとおくかっぱ石にいる 々
河童明るい夜を暗い水を見る 々
かっぱ冬になったひざをだく 々
月と河童はお互いに孤独を照らし合い、暗い水と冬はかっぱの奥深くへと滲み通ってくるかの如きである。また、掲句のすべての句から「かっぱ」という言葉を削除しても、自由律俳句として立派に通用する構成となっており、「かっぱ」=「自己」という存在自体の危うさをも示唆しているのかもしれない。因みに圭之介は芥川龍之介が好きで、その「之介」を拝借し、姓と画数でバランスのいい圭の字を充てた由(*)。
尚、昭和24年には荻原井泉水が河豚を食べる目的も兼ねて山口県の圭之介居を訪れ、そこを「河童洞」と名付けて下記の句を残している。
熟柿 宝珠のごとし かっぱ わたしの前に置く 井泉水
あら何ともなや ふぐの朝 ここなかっぱといる 々
こうした河童としての想念はその後どのように展開していったのであろうか。
思想喪失 菜の花が咲いた 昭和54年
抽象能力ゼロ 肉ジャガがただうまい 平成4年
自己分析 丸ごと落ちた非具象果実 平成5年
宙(そら) 一滴 平成16年
具象としての自己存在は、やがてその非具象化への過程の中で、ただ一滴としての存在感へと収斂されていったようである。
*「うしろ姿のしぐれてゆくか・山頭火と近木圭之介」桟比呂子著 海鳥社 平成15年
●―2稲垣きくのの句/土肥あき子
かくれ逢ふ聖樹のかげよエホバゆるせ 『冬濤』所収
「女はクリスマスの夜から堕落する、ということばを何かでよんだ覚えがあるけれど、その例にもれず私も何十回かのクリスマスを重ねているうちにだんだん堕落して、こんな人間になったのではないかと思われるふしがある」
随筆集『古日傘』の「降誕祭」の冒頭である。クリスチャンだった一家は、聖夜を家族揃って教会で過ごし、きくのは15歳で受洗している。
先に引いた文章は、9歳の聖夜の記憶がつづられる。教会で配られる菓子を偶然ふたつもらってしまったことを家に帰って告白したが、母はにっこりと笑っただけだった。当然叱られることを覚悟していた少女は、「このくらいのことならしてもよいのだなという確信を得て、このとき、それだけ堕落した」と結ばれる。きくののひとつめの堕落の記憶であろう。
掲句は、きらびやかな聖樹のもとでの逢瀬でありながら、隠れるようにして逢わなければならない事情が、聖なる夜をけがしていることに胸を痛める。クリスチャンであるきくのにとって、聖夜は家族とともに過ごす特別な時間であった。なおさら恋人に妻子があることを意識せざるを得ない、いわば自虐的ともいえる逢瀬である。
背信の罪軽からず冬の虹 『榧の実』所収
にも同じ傾向の背徳感は出ているが、掲句の率直さには及ばない。きくのに字余りの作品がほとんど見られないこともあり、下六となった「エホバゆるせ」が、どうにもならない女の慟哭となって渦巻いている。
椿真赤嫉みアダムのむかしより 『冬濤』所収
罪なきもの石もて搏てと蛇出づる 『冬濤以後』所収
などの作品にも、クリスチャンの横顔がみてとれる。
キリスト教のいう七つの大罪とは、「傲慢」「憤怒」「嫉妬」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」であるが、きくのは「色欲」「嫉妬」に囚われる自身を、嘆き悔いていたのだろう。
二句目は聖書の「罪なき者が先ずこの女に石を投げよ(*)」である。これは忌むべき蛇の姿に、かの言葉を重ねているが、蛇はまたきくの自身でもある。
亡くなる数年前となる次の作品には、堕落を重ねてきたと自覚しながら、最後まで聖書を折々の心のよりどころとして、生きていたきくのの姿がある。
復活祭亡母の聖書を死まで持つ 俳句研究 昭和57年5月号
天上に宝積めよと聖書春 昭和58年4月号
●―4齋藤玄の句/飯田冬眞
雁の道のごとくに死ぬるまで
昭和53年作。第5句集『雁道』(*1)の表題作。
この句は、句集名の由来をつづった「あとがき」とあわせて読むと理解が深まる。
『雁道』(かりみち)という集名は、雁の通る道という意で命名した。雁道は、雁が通る時にはそれと知られる。また雁が通らなくともそこに存在する。時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとくである。これは今後の私の命のありようと、俳境のありようを示唆しているような気がする。(*1)
上五〈雁の道〉は、「かりがねのみち」で、雁(かり)の通る道という意。雁が通ることで、そこに道があることがわかる。つまり、俳句を詠むことで生きていることを実感できるということの暗喩として読むことも可能だろう。句意としては、〈雁の道〉のように自分の命は〈死ぬるまで〉俳句とともにある。雁が通らなくとも道が存在するように、自分の命が果てた後も俳句はそこある、ということになろうか。この句には、齋藤玄という俳人の俳句に対する精神性が端的に現われているように思う。
「時には見え、時には消え、在って無きがごとく、無くて在るがごとく」という玄のことばからは、次の古歌を想起する。
仏は常に在せども、現ならぬぞあはれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ
(梁塵秘抄・法文歌・26)
この歌謡は『法華経』の「方便して涅槃を現ず。しかも実には滅度せず、常にここに住して法を説く」の経文を下敷きにしている。経文の大意は、仏の死は人々を教え導くための手段として涅槃、つまり死をあらわしたのであって、実際には仏の魂は滅んでいない。常にこの世界にとどまって法を説いているのである、というもの。
掲句と「あとがき」とこの経文・古歌謡をあわせて拝すると、どこか通底するものを感じないだろうか。おそらく、玄は熱心な身延の門徒であった祖父の影響で『法華経』は諳んじていたはずである。幼少の頃に読誦した経文が、玄の精神に影響を与え、血肉化して晩年に俳句となって現われたと考えるのは飛躍しすぎだろうか。
四歳で父を失った玄は、函館の名士であった祖父の家に母とともに身を寄せる。祖父は玄の大学進学、就職、結婚までも支配強制したことはすでに述べた。その祖父が亡くなった際に「祖父を桐ヶ谷火葬場に焼く」と前書を付した句を参考までにあげておく。ここでの雁は現実の雁であり、季語の本意を逸脱していない雁である。
骨ひらふ手は初雁を聴いてゐる 昭和16年作
一方、掲句と同時期の作品に現われる「雁」を見てみよう。
雁のゐぬ空に雁の高貴かな 昭和53年作
雁の道はなかりき水景色 昭和53年作
これらも掲句と同様に「雁」をモチーフにしてはいるが、現実の「雁」を詠んだものではない。想念のなかの雁であり、風雅の道すなわち俳句の象徴であると思われる。あるいは〈雁やのこるものみな美しき〉と詠んだ師石田波郷の面影を〈雁〉の姿に重ね合わせていたかもしれない。そうした心のなかの見えない「雁」であるがために、詠むたびに純度が増し、それを〈高貴〉と感じるようになったのではないか。
膝立てて大露の雁をゆかせけり 昭和17年作
雁が渡るのを眺めながら戦地の友に思いを馳せていた頃の句と比べると、晩年の玄の「雁」には、ある種の精神性が帯びていると言えないだろうか。
掲句のように、目には見えないが、実はそこに厳然と在るものを言語によって表出せしめようとする作風は、『雁道』後半、昭和51年頃から54年頃にかけて繰り返し見受けられる。
言水の非在の影をこがらしす 昭和51年作
ある筈もなき蛍火の蚊帳の中 昭和52年作
空だけが見ゆる不在の水かげろうふ 昭和54年作
これらの句は、病を通して、死および命の本質というものに直面した時期に相当する。ことばが生硬すぎて、失敗していることも多いが、未知の世界の腑分けとでもいった手つきで、自身の限られた命を見つめ続けた精神力は尋常なものではありえない。そこに私は玄の俳句に対する「高貴」な精神性を感じるのである。
*1 第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載
●―5堀葦男の句/堺谷真人
蠅のせて白牡丹いま道家のごと
『過客』(1996年)所収。1990年頃の作。
百花の王として君臨する牡丹。わけても白牡丹には清浄にして神聖不可侵のたたずまいがある。が、よりにもよって眼前の白牡丹にとまっているのは、なんと一匹の蠅なのである。当の白牡丹は、しかし、至穢の昆虫の侵冒に遭って毫も動ずることがない。清濁併せ呑む老荘の徒のごとく、悠然とかまえ、ただ静かに微笑している。
この句が作られる前から葦男は老荘思想、なかんづく『荘子』に傾倒していた。1987年の賀状に『荘子』人間世篇の「乗物以遊心(物ニマカセテ以テ心ヲ遊バス)」を引いたところ、理科系の友人は「車の運転心得かと思った」と冷やかし半分のコメントを寄越して来たという。(※1)はたから見ていささか滑稽なほどの心酔ぶりだったのであろう。
さて、老荘への傾倒を語るのと同根の熱意をもって、葦男は夙に俳句の精神性を説いた。賀状の一件から溯ること約20年、葦男を箕面市百楽荘の自宅に訪ねた坪内稔典は、当時の印象を、後年、次のように回顧している。
まだ20代のころ、摂津幸彦などと堀葦男を訪問したことがある。しきりに心を説き、俳句における精神性を強調する葦男をやや疎ましく感じた。東大卒のエリート意識がちらつくことも。摂津も私も私大を出たばかりであり、葦男の上からの物言いに反発したのだった。でも、葦男夫人のちらし寿司がうまかった。心には閉口したが寿司には満足した、そのような葦男家訪問だった。
若き幸彦、稔典の辟易ぶりが偲ばれる挿話ではある。実際、後進にあてて書いた俳句論(※3)の中でも葦男は繰り返し「精神」という言葉を使っている。俳句を続けることで自分の「精神生活を、自分で見守る力」を持ち、「バックボーンがしっかりした精神生活が出来るように」なった、「句会や雑誌のグループによって、純粋な精神的交友の場を見出せた」というふうに。
しかしその一方、「砂上の楼閣」めいた現代日本の繁栄に巣くう精神状況の貧寒さに対し、葦男は危機意識を持ち続けた。とりわけ、次のような作品に接するとき、精神性の頽廃と自己疎外に対する葦男の警戒心を筆者はまざまざと追体験するのである。
箱のような俺 中流で回転する 『火づくり』
廃物岬の鮮紅の沖花束死ぬ 『機械』
※1 『一粒句集』第24集 序文(1987年 電通会俳句部)
※2 「e船団」この一句 バックナンバー(2005年3月15日)
※3 『俳句20章―若き友へー』(1978年 海程新社)P7/初出は「海程」創刊号
(1962年4月)~29号(1966年12月)所収「現代俳句講座」
●―8青玄系作家の句/岡村知昭
仰臥にて尿り糞まり神を言はず 滝沢初馬
昭和25年(1950)9月号初出。前回の日野草城の一句と同じ病床に横たわる自らの「病める身体」をモチーフにした作品であるが、「病める身体」を通じて外の世界から訪れる音や物体の影を捉える姿勢に徹する草城の句に対して、今回取り上げる掲出句は「病める身体」を支える精神のありさまをそのままに描いた一句である。作者である滝沢初馬の詳しい履歴は不明であるが、掲出句以後に「血を喀く」との作品が見られるところから、初馬の病気が肺結核で、おそらく結核療養所で闘病生活を送っていたであろうことはうかがい知ることができる。
昭和26年の9月号の「青玄」では「病者と俳句」というテーマで4人の論者が文章を寄せているが、その中のひとつである林田紀音夫は「サナトリウムに於ける俳句」と題した一文で、療養者の俳句について「肺外科の進歩は僕たちに希望を与へると同時に積極的な斗病の精神を醸成し、生活の領域を拡大した」と肺結核治療をめぐる状況がこれまでの「死病」との意識から療養者自身の精神にこれまでにない変化をもたらしつつあることを指摘した上で、「自らの手に拠って運命の扉を開いてゆく体験なり精神なりが、俳句としてすさまじい様相を以て結晶するやうになった」と療養者自身にもたらされた精神の大きな変化の諸相が俳句作品においても次第に現れつつある点を指摘している。この変化から生まれた作品の代表として紀音夫は石田波郷の「胸形変」を挙げこの一連において「烈しく新しい展開が為されたのである」としている。自らも療養所生活を余儀なくされた紀音夫の指摘からは、過去の絶対的な「死病」との意識から医療技術の進歩により「生」の側に戻れる可能性がもたらされたことが逆に一個人としての自分自身の「死」への意識がより高まることで、より「生」への願望や熱意そのものが俳句作品のモチーフとして浮かび上がってくる過程が見えてくるのである。
再び掲出句に戻ってみる。自らのただ今の闘病と身体の不自由さに湧きあがる衝動にすら近い感情の動きをそのままに俳句定型に収めてしまおうとする作者の一念が、「尿り糞まり」とつぎつぎに畳み掛けてくる言葉の連なりから病床の動きを封じられている身体の姿とともに浮かび上がってくるのが見て取れ、「神を言はず」との結句は自らの自由のきかない身体に対してのせめてもの意地を感じさせることで、一句の痛々しさをよりはっきりとしたものとしようとしている。病気がもたらす肉体的な苦痛の数々が思いもかけず神への救済を口走らせそうになるそのときに「神を言は」ない、決して言ってはならないとの決意をもたらしてくれるものが、初馬の「病める身体」を辛うじて支え続ける精神そのものなのであり、その精神の姿は紀音夫が指摘した療養者の生死をめぐる目まぐるしい変化の中で揺れ動きながら存在しているのである。そうでなければ「神を言はず」とのフレーズは出てこなかったであろうし、一患者として「神を言はず」と言い放てるようになっていること自体が、まぎれもなく「戦後」の療養者である証とも言えるのだ。
そのような一患者であった初馬の無季作品を挙げておきたい。引用は昭和31年10月号に掲載された伊丹三樹彦編の「青玄無季俳句集」より。
童貞のわが喀く血こそまくれなゐ
うりつくし一つのこれる銀の匙
血を喀けばものみな遠くなるごとし
特効薬貧しき家の金を奪う
働かぬ手をしみじみと眺めけり
●―9上田五千石の句/しなだしん
初蝶を見し目に何も加へざる 五千石
第四句集『琥珀』所収。
『琥珀』(*1)は、昭和五十七年より平成三年まで、四十九歳から五十八歳までの作品392句を収録する第四句集。掲句は平成三年作。昭和四十八年八月の「畦」創刊から十八年、いわば脂ののりきった時期、「眼前直覚」も熟成された時期といえるだろう。
*
著書『完本俳句塾 眼前直覚への278章』(*2)の「序にかえて」(*3)で五千石は「眼前直覚」について
「眼前」を尊重し、「即興感偶」「そのおもふ處(ところ)直(だたち)に句となる事」をめざしています。(中略)
「眼前直覚」はまた、昨日のわれは既に無く、明日のわれは未だ無い。
今日の只今われ在るのみ――という生き方へとつながっていくように思います。
と記している。
また、著書『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』(*4)のなかで、「眼前直覚」に至る経緯について触れている。
第一句集『田園』により第8回俳人協会新人賞受賞のあと、自意識過剰となってスランプに陥り、そのスランプは数年続く。その折、五千石はひとりで山を歩くことを思い立ち、実行する。ひたすら野山を歩くことによって無心になり、目の前にあるものを、事実をそのまま叙するという、単純な作句から自分を取り戻し、徐々に「眼前直覚」の境地に至ったのだ。
*
さもありなん。俳句に困ったら俳句を作る。自然のなかで嘱目をひらすら詠む。この至って単純なことが自分と向き合える方法なのだろう。
さて掲句。初蝶の美しさを映したその目には今は何も映したくない、という明快な句意である。「いま・ここ・われ」がストレートに形になっている。このストレートさがこの句の強さであり、真っすぐさは五千石の俳句への熱い思いと詩心の象徴である。
この句の真っすぐさこそ、「眼前直覚」であり、五千石の俳句の精神そのものといっていいだろう。
*1 『琥珀』 平成四年八月二十七日 角川書店刊 シリーズ現代俳句叢書3
*2 『完本俳句塾 眼前直覚への278章』 平成3年8月30日 邑書林刊
*3 「序にかえて」は筑摩書房『俳句の本』「題二巻 俳句の実践」昭和55年5月20日初版より
*4 『俳句に大事な五つのこと 五千石俳句入門』平成21年11月20日 角川グループパブリッシング刊
●―10楠本憲吉の句/筑紫磐井
青葉騒きれいな嘘はきたなく吐き
昭和44年の作品、『孤客』より。
憲吉に高い精神性を期待するのは無理のようだ。エスプリはフランス語では精神のはずだが、日本語に入ってきたエスプリという言葉(外来語)の語感は軽妙な洒落のように受け取られている。その意味では憲吉にピッタリの言葉となった。
我々の人生の師を憲吉には期待しない。憲吉の俳句にも期待しない。期待するのはウィットに富んだ表現。しかし手際よく言ってのけたその言葉には、いくばくかの人生の真理があることも事実だ。
徒然草で兼好法師が「しやせまし、せずやあらましと思ふことは、おほやうは、せぬがよきなり」(したほうがいいか、しないほうがいいかと迷うことは、大体はしないほうがいいのだ)という言葉は、どんな思想哲学よりも真理に近い【注】。こうした消極主義は決して人生の教師から見ても褒められたものではないのだが、崖っぷちに臨んだ態度を決めないといけない時は、最大の決め手だ。酸いも甘いも噛み分けて、常に矛盾に満ちた言葉を吐き、芝居では恋の手引きをする粋な法師兼好は、さしづめ、鎌倉時代の楠本憲吉であるかもしれない。
逢えば酔語逢わねば独語年暮るる
手際よく言ってのけただけの言葉のようにも受け取れるが、この言葉の背後にはそれなりの憲吉の精神状態が浮かび上がる。酔語も独語もまともな精神状態ではないが、女に向かう時の態度はこの2つしかないのだ。女性に真面目な顔をして向かうことは、憲吉の美学に合わない。
冒頭の句も、嘘を吐く相手は女性のような、あるいは女性が男性に向かって吐く嘘のような気がする。男対男の嘘にはきれいも汚いもあるものか。
【注】とはいえ、この言葉は浄土教の金言集『一言芳談』に載る明禅法印の言葉の引用であり、彼は「聖はわろきがよきなり」という親鸞に匹敵する言葉を吐いた傑物である。その思想的な背景は決して浅くはない(徹底した消極主義はカントのような厳格主義、義務的な行為以外は善と認めないことになるだろうから)。しかし、兼好も憲吉も決してそんなに深くはないことだけは保証する。
●―12三橋敏雄の句/北川美美
戦争と疊の上の團扇かな
掲句から句集名を採った『疊の上』が蛇笏賞を受賞する。敏雄69歳の時である。
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡邊白泉
敏雄が、俳句形式に立ち向い、白泉の句に対峙する代表的な戦争俳句である。
戦争にたかる無数の蠅しずか
戦前の一本道が現るる
戦火想望俳句に没頭した三橋青年が「戦争」という歴史的事実を思いつづけた重みが背景にある。戦争を詠むことは敏雄にとって終生のテーマであった。
戦争は憎むべきもの、反対すべきものに決まってますけれど、<あやまちはくりかへします秋の暮>じゃないけれど、何年かたって被害をこうむった過去の体験者がいなくなれば、また始まりますね。昭和のまちがった戦争の記憶が世間的に近ごろめっきり風化してしまった観がありますが、少なくとも体験者としては生きているうちに、戦争体験の真実の一端なりとせめて俳句に残しておきたい。単に戦争反対という言い方じゃなくて、ずしりと来るような戦争俳句をね。(*1)
生き残った敏雄がいる。
「団扇」は夏の風物詩であるが、悪霊を払うもの、軍配を決めるもの、多様な意味を持つ。「戦争にたかる無数の蠅しずか」「戦争が廊下の奥に立つてゐた(白泉)」に呼応し、誰が戦争の蠅(悪霊)を追い払うのか、誰が戦争を裁くことができるのか、という読みもできよう。団扇を手にするかどうか、それは読者次第かもしれない。
歴史上の重いテーマであり人々の脳裏に様々な映像、概念を内包する「戦争」という言葉、そして小津安二郎のカメラ目線の低いアングルが感じられる日本の日常風景である「畳の上の団扇」が、「と」で結ばれ「かな」で言い切られている。
新興俳句作品は切れ字の使用が極端に少ない。三鬼の影響が濃く反映している『まぼろしの鱶』(昭和三十年代の項)での「かな」の使用は皆無だった。しかし『眞神』から「かな」使いが復活している。初学より「新しさは歴史を通じて生き得る」(『太古』序)の確信の元、新興俳句弾圧後に古俳句研究に親しんだことに加え、高柳重信の下五「~かな」の影響が強いと感じる。この点について、『新興俳句表現史論攷』(川名大)に同意である。また古俳句の二物の「取り合わせ」「付け合せ」をみると、「や」を用いるケースが多く、「閑さや岩にしみ入る蝉の声(芭蕉)」「名月や畳の上に松の影(其角)」「鶯や下駄の歯につく小田の土(凡兆)」などがある。敏雄の句も「戦争や畳の上に置く団扇」となりえるところを、「と」で結び「かな」で感慨を言い切っている。「かな」の使用はないが、新興俳句の旗手である高屋窓秋に「山山の蒼き日と夜舞扇」がある。
掲句はある意味、高橋龍氏の「疊の上の団扇と戦争の出会い」(*2)という言葉を発展させ、いささか飛躍が過ぎるが「ホトトギスと新興俳句の邂逅」と思える。そうなると、この「と」は、偉大なる格助詞ということになる。ホトトギスから分裂し、弾圧により消滅した新興俳句の種子が木になったような、ある到達点を感じることは確かだ。敏雄の切れ字、助詞の使い方には、俳句の可能性がみえてくるのである。
余談になるが、今年に入り、中近世国語語彙・俳文学研究者の小林祥次郎氏から筆者所属俳句誌『豈』『面』をご覧になられた感想を頂いた。「現代俳句は、あまり読んだことも無いのですが、『や・かな』を使っているので、少し心が和みました。」と綴られていた。氏の執筆箇所、『俳文学大辞典』(平成7年初版・角川書店)・切れ字の項は確かに、「新興俳句以降は、『や・かな』などで簡単に詠嘆することを嫌う傾向が強い。」とあった。敏雄の『や・かな』使いが、新興俳句以降の俳句史にどう影響を与えていくのか今後の課題としたい。
『眞神』(昭和48年)以降に感じた作者の遠い彼岸からの視点が、『巡禮』(昭和54年)『長濤』(昭和54年)あたりから徐々に、『疊の上』(昭和63年)では確実に現生の遠い視点に転換されている観があることも付け加えたい。恐らく『三橋敏雄全句集』(昭和57年)が発行されたあたりに敏雄の視点は地上に降りたという気がする。
「志して至り難い遊び」(『まぼろしの鱶』後記)は、新興俳句、そして戦友・句友を悼み、戦後日本への問い、俳句とは何かという問いでありつづけた。それを敏雄の精神と理解したい。
*1) 『証言・昭和の俳句 下』(聞き手・黒田杏子/角川書店)
*2) 『弦』33号 2011.7.1(遠山陽子編集・発行)
●―13成田千空の句/深谷義紀
おむすびは心のかたち雪のくに
第6句集「十方吟」所収。
平明な表現ながら剛直な句柄を示す千空作品のなかにあって、多少の異彩を放っている句だと思う。端的に言えば、「心のかたち」をどう解すべきか、些か悩ましいのである。
例えば、同じ「おむすび」をモチーフとした作品を引いても、
蒼茫とねぶたの首途(かどで)塩むすび 「人日」
秋日濃しめし屋に味噌の握り飯 「白光」
など、どれも句意は明瞭であり、こうした悩みが生じる余地はほとんどない。一句目は、ねぶた出発直前の光景であろう。日が沈み、夜の帳が下り始める時分であり、塩結びの白さが際立つ。二句目も、庶民的な食堂に置かれた味噌握りが目に浮かんでくる。
それに対し、掲句は抽象的色彩を帯びるため、一読しただけでは掴み所がない感がある。
もちろん句の意味を事細かに解することはある意味邪道であり、句をそのまま味わえばいいのかもしれない。だが、やはり腑に落ちない。リアリティが感じられず、言葉のみが先行しているように感じられるのである。つまり千空らしくない作品に思えるのだ。
いろいろ考えあぐねた末にふと閃いたのは、千空の住んだ五所川原に程近い岩木山麓で「森のイスキア」と名付けた施設を主宰する佐藤初女さんの存在である。彼女のもとを、生き方に悩んだ様々な人達が訪ねてくる。彼女はその人達をおにぎりなど手作りの料理でもてなしながら、話を聞くという。訪ねてきた人達は、佐藤さんが作ったおにぎりを一緒に食べながら、徐々に心を開き、自分自身で答を見つけていく。そのおにぎりこそ、悩みを抱えた人達の心の扉を開ける鍵なのであろう。
千空が掲句を作ったとき、佐藤さんの話がモチーフになっていたのかどうかは定かではない。地理的にそれほど離れているわけではないのでその可能性はあるものの、断定するほどの材料はない。
しかし、考えてみればおにぎりほどシンプルな料理はなく、その作り手の心のありようを示すものはないだろう。だからこそ、「おむすびは心のかたち」になりうるのである。おそらく千空もそのような思いに至ったのだと思う。作り手として千空が思い描いたのは、優しかった実母かもしれないし、掲句が作られる少し前に逝去した義母(市子夫人の母)かもしれない。あるいは市子夫人その人かもしれない。いずれにせよ、そうした思いのこもったお結びを食べた体験が記憶の底に眠っていた筈である。
そう考えた時、この句に一挙にリアリティが生まれ、いかにも千空らしい句だと思えてきたのである。
●―14中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】15.16./吉村毬子
15 喪の衣の裏はあけぼの噴きあげて
墨色の喪の衣は、生者が纏うものである。死者は、白装束に包まれる。
生者である者の墨色の喪の衣の裏が、「あけぼの」を噴き上げるのだと詠う。「あけぼの」は、薄っすらと仄仄と、空が明けてゆく様であるが、その「あけぼの」が喪の衣の裏で「噴き上げて」という事態は、尋常ではない。白装束へ送るその詩の色彩。喪の衣の表の墨色と裏のあけぼのの朱色が織りなすその色は、死者の白い衣へ滲み出していくことだろう。淡く濃く、死者と生者を結び付けながら・・・。
新しく生まれ変わるという意味をも持つ「あけぼの」は、死者の新たな始まり、そして、両者の遠い遥かな未来を詠っているのだろうか。
死を扱った句で、このような作品は記憶にない。死者と生者との距離を隔てない独特な表記である。生と死という、人が与えられた究極な対比を同一線上に置き並べ、その線を苑子流に綾取りの如く交差させる。それもまたひとつの輪廻の形であろう。
此の句を目にした当初の二十代の頃は、死者の死を秘かに願っていた生者の側の視点からの句と思い込み、作品とは言へ、誰にも聞くことができなかった。しかし、幾度も読み返す過程で、死者への新たな始まりへの礼賛の句ではないかと思うようになった。
次句もまた、死を自己の中で咀嚼していこうとする段階の始まりであろう。
16 祭笛のさなか死にゆく沼明かり
「祭笛」の響く雅な華やかさの中、死んでいく者がいる。祭りの喧騒に送られる死とは、如何なるものか。例えば、桜舞い散る季節でのひとつの死の在り方として、美しさに憧れる様もある。祭りが賑やかなほど、その死の静かさを増していく。
「沼明かり」を下五に据えた締め方は、「祭」と「沼」の対比に寄り、双方がその語の存在を印象深くさせている。「沼」ではなく、「沼明かり」である。仄かに灯るその明かりは、死者を招く標なのか、死者の魂であるのか・・・。夜の闇の中で突き抜ける笛の音が沼の辺まで届き、湿りを伴う地や虚空が沼とともに葬歌を奏でる。
前句もそうであるように、黒という闇-死-を思わせるものと仄かな明るさの朱-生-を対比させて一句を成している。が、特筆すべき点は、死に対する仄かな-生-が再生、蘇生を感受させるものであるということである。前句の「喪の衣の裏」に、見る見ると染め上げられてゆく「あけぼの」の「朱」、掲句の沼の底から湧いてくる「明かり」は、生身魂、魂魄かも知れない。そして、闇の中の黒と仄かな朱との配合が醸し出す色彩も、その蘇生感を彷彿とさせているのである。
17 来し方や袋の中も枯れ果てて
何の「袋」であろう。そして、「来し方」とは、とても永い時間大切な何かをしまっておいたものなのか。
己を容れた、己が包まれていた歳月という名の「袋」とも言える。「袋の中」には、かつての理想に燃えた己がいた。苦境に喘ぐ日々もあった。悲哀に泣いた日もあった。が、「袋」は、「生」の象徴であった。しかし、今、その「袋の中も枯れ果てて」と呟く。
切れ字{や}を使用しているが、一句一章の内容であり、{や}は切れと共に感慨、嘆息の{や}でもあろう。
虚しさの果ての諦念観が此の一句に込められている。「生」が始まった瞬間より、「死」も始まるのだが、この停滞した「生」は、「死」へも到達することはなく、ふらふらと彷徨っているだけである。
前の二句の、蘇生をも思わせる鮮やかなまでの「死」の提示からすれば、燻るばかりのかたちのない「生」である。人は、永年の生を得ると、このような一刻も必ず訪れるのだろう。
今回の見開き二頁終わりの四句目に至っては、更に「生」を嘆いているようである。
18 天地水明あきあきしたる峠の木
「天地水明」は、「天地神明」からの発想か・・・。
「天地神明」は、天地の神々への感謝や誓いに表される言葉であるが、「天地水明」、それは、日月の光に水澄む美しき日本の天地のことであろう。それもまた、自然の神々のもたらす生命の源であろう。
しかしながら、その後に続く中七、下五の「あきあきしたる峠の木」は、投げやりなまでの表記である。「天地水明」の透明、且つ、平和な安定感に浸りながら、頂点の峠に立つ木がその状態を拒むように、嘆いているようにも伺えてしまうのであるが・・・。
登り坂の頂点に立つ木、それは下り坂の始まりの木でもある。峠の木は、登り坂を克服した後に、必ず訪れる下り坂を降りて行くものを、繰り返し迎え、見送ることにあきあきしたと言っているのか・・・。
「峠の木」は、苑子自身であろうか。もしくは、「峠の木」を幾度も眺めた、過去の昇り降りにもうほとほと疲れ、愛想をつかしたということなのかも知れない。
真髄は、「天地水明」と叫ぶ切れである。「天地水明」に本心を語っているのだ。自身を育み、慈しんでくれた「天地水明」だからこそ、訴え、誓えることができるのである。「天地神明」から「天地水明」と表記し、「神」を「水」と同様に呼んだその叫びは、「水」に対する畏敬の念が溢れている。天地を流れる水から、有り余る恩恵を授かり、自身もその水と一体化するように昇り降りし、流れてきたのである。此の句は、「水」は、苑子の「神」なのだと言い放ち、その「水」に本音を漏らしているような気がしてならない。
「水妖詩館」という句集名の第一章、{遠景}にふさわしい一句である。