2024年9月13日金曜日

加藤知子句集『情死一擲』跋  竹岡一郎

宇気比(うけい)に焦がれる句、観るための          竹岡一郎


 俳句が穏やかなもの、誰にでもわかるもの、存問の詩となってから、どのくらい経っただろう。それは俳句が生き残る手段でもあったように思う。それはそれで良い。俳句が穏やかに懐かしく、心を慰めるものである事に、何の間違いもない。しかし、その穏やかさ、判り易さに留まる事の出来ぬ者もいるのだ。留まらぬ事こそが生だと。

生きている駅と国境(さかい)にある裸身

魂洗う水の(ほそ)きに雁渡

 俳句が物を言えない詩だからこそ、同じく言葉に出来ないような密かな昂りを、俳句に託したいと望む者がいる。その衝動はどんなに抑えようとしても、灯る欠片のように零れ落ち、此処に外れ者がいる事を知らせる。国境に、比良坂にある如く桃が実る。死が灯り、性が香るのか。或いは性が灯り、死が香るのか。

人体のかけらが明りほうほたる

とめないで桃の香りに酔うて襞

 城塞の内に囲まれ得ぬ者は、常に死を見る、同時に性を見る、それは破壊と再生の円環を見る事だ。最大公約数から外れ、平均化されない思いを詠おうと試みる。

蠢くは契りし口に蛆血膿

ほと深きところに卍春は傷

 その詠い方は、従来の慣れ親しんだ俳句の在り方からは異質なもので、時に酷く不器用で、幼いと見違える程たどたどしく在らざるを得ない事さえある。

ひとりきり 澄むほど凍え咲くすみれ

ぐるぐるす鏡の奥の野遊びは 

 此の世の中央に近づけば近づくほど、偽りの比率は大きくなると言って良いだろうか。欺瞞がはびこるのは世の常だと、歳を重ねれば好い加減わかるはずだ。

牡丹絢爛ミイラとなりて隣る影

 では、辺境に在れば、此の世の本質は見えるだろうか。そうとも限らないが、少なくとも、見ようとする己が望みは護れる。直截に見ようとする意志、それは焔だ。

一色ずつ虹をはがせば火傷痕

 「技法に長ける事」と「技法に悪馴れする事」との判別は難しいのかもしれない。それならば、いっそ意味を跳躍してでも鮮やかであろうとする方が良いかもしれない。何が幻で何が現実かなど、此の世の誰にも、そして彼の世の誰にも分りはしない。

隙なく絞めむ鯨の精の果つるまで

囀りに命おちこち落ち止まず

火柱を舐め合う夏野漆黒の

 死も、性も、生も、唯物論で安易に括られるようになってしまった現在、それらを鮮やかに詠おうと試みるために、どんな立ち位置が必要だろうか。血は魂である、郷土である、系譜である。個人は世界との関係性によって立つが、それは公共性や平均化とは何の関係も無い。最大公約数という落し処は、個人と世界との結び目を穏やかに断ってしまう。一人の生が独特のものである以上、一人の死も性も、独特のものだ。己が死を抱きしめ、己が性を抱きしめるとは、己が血を抱きしめる事であり、その血こそが、世界との独自の結び目だ。物言えぬ詩において、削ぎ落すべきものの選択。

華よ血の香りよ虹に髪浸らしめ

月とるにあばらの骨をそぎ落とす

縊る手を持つのはあたし姫女苑

 生を思うなら、己自身が世に現れる入口であった母とは、何者だろう。一人の母を探る事は、己が独自の神話を探る初めだろう。神話の始まりは、いつでも暗いのだ。

暗河(くらごう)の母のようたりもがり笛

 ならば愈々、神は。西洋の唯一絶対神ではなく、豊かな感情を持ち、経典や教義に縛られない八百万の神々に、俳句という最小の詩で接触するには、どうすれば良いだろう。「国産み」なるものが、実は中央集権の正当性を補填するのではなく、一人の個人の恋と性と死を、確認するための神話だとすれば。地祇、或いは更に古い祀られぬ神々の物語は、最大公約数から外れる個人が詠わなければ、誰が詠い得るというのか。

昂るけもの地祇のみどりへ華を産む

その児流され脚の生ゆ日子(ひゆ)の軍

 如何なる「宇気比」を、即ち如何なる神託を、書く者自らが審神者となって判断すれば良いのか。審神者となる、とは、己を神の鏡と化す事だ。神風連はなぜ、明治政府の欧化政策に、死を賭けて刃向かったのか。己が血を護るためではなかったか。

宇気比(うけい)にかけ志士冴え返る水鏡

鏡像は花咲く森の死のむこう

 生きる限りは、戦争という、人間の本能とも言える暗黒を、地上にかつて一日たりとも絶えた事のない殺戮を、見続けなければならない。凝視するとは苦痛である。

地の腹に花火分かれて臓物の街

ミサイルも戦車も溶けずされど緑雨

 戦争の状況を詠うだけでは、もはや充分ではない。戦争が常に掲げる正義を、どう疑い、正義にどう抗し、どんな反語と諧謔を以て、戦争を、本能を見抜こうとするか。

枯野薔薇少年兵の撃つ快楽

詩を書くな戦争だけをさるすべり

 第三次世界大戦がこれほど迫り来た事は無かった。国々に伝染する悪疫の如く、戦時が常態化する国は増えゆくのか。だが、己が炬火を掲げる困難さとは、常に一個人それぞれの、独自のものだ。己が独自の死を、性を、生きのびる事を求めゆく日々。己にとっての「国産み」の神話を探るとは、己が血を真っ向から見る事でもある。

腿深く螺鈿蒔くようほうたる来い

首筋に情死一擲の白百合

 此処に一巻の句集があり、あけっぴろげで不器用で、時にたどたどしく時に鋭く、時に婉曲であり時に直截だ。此の世と彼の世を、人間と八百万の神々とを、あるがままに観たいと立つ焔、宇気比に焦がれる焔の、その欠片が、それぞれの一句である。

 読者よ、その明かりの一片でも、己が心に灯されんことを。


  令和六年四月


 (この跋文は、6月21日亡くなられた竹岡一郎氏の加藤知子句集『情死一擲』に寄せられた跋文を転載させていただいたものである。竹岡氏の最後に執筆された文章ではないかと思われる。竹岡氏には、「俳句新空間」で様々なご協力をいただいたところから、加藤知子氏のご了解を得て転載させていただいたものである。その豊かな才能(時に過激な才能)を惜しみつつご冥福をお祈りしたい。 筑紫磐井)