2024年9月27日金曜日

【加藤知子句集『情死一擲』を読みたい】➀ エロスとタナトスとの狂想曲  藤田踏青

  句集の跋文にて竹岡一郎氏が真摯に正攻法で作品に対峙され、「此の世と彼の世を、・・・あるがままに・・・」と解明されたことで総てが言い尽くされていると思われると共に、それが氏の作者への遺言であるかのようにも思われる。

 私としては作者の〈あとがき〉から逆算的に句集を眺めてみたいと考えた。つまり句集名の『情死一擲』が、映画「華の乱」に触発された〈首筋に情死一擲の白百合〉に拠るという自解からである。此の映画の主人公は波乱に満ちた与謝野晶子であるので、白百合は彼女を暗示していると共に、有島武郎・波多野秋子との情死も重ね合わせていると思う。

 そこにエロスとタナトスとの狂想が認められる。

 エロスを象徴する句としては


   太腿に金の雨降る野のあそび

   引き籠もるとは貞操帯の冷まじき

   生殖器春泥こびりついてをり

   ほと深きところに卍春は傷


 肉体に関する「太腿・生殖器・ほと」などの性の直截的な語彙や、それに関連する「貞操帯」などの語彙への嗜好は作品に頻出している。それらの性・エロスは生への欲動であり、絵画や音楽のように感覚そのものが作品となっているかに。

 生の欲動であるエロスに対して、死の欲動であるタナトスは対立して存在しているのではなく、ここではお互いに抱き合った存在となっている。それは、肉体という概念が人間性全体を覆えない限り、生・エロスと死・タナトスは意識界の外に存在するからであろう。タナトスを象徴する句としては


   冬銀河輪投げのように逝くことも

   華よ血の香りよ虹に髪浸らしめ

   丹塗矢を受け立つ椿流れ着け

   首筋に情死一擲の白百合


 日常的な意識層をかき回すだけの詩への否定が、非日常のタナトスへと色彩的な視線を投げかけているのであろう。


   宇気比にかけ志士冴え返る水鏡

   鏡像は花咲く森の死のむこう

   青葉若葉詩にただようは死ねの声


 神風連への言挙げの作品であるが、作者はそこに西南の役との通底として、文学的な情死・心中を認めている。私はそこに更に秋月の乱を加えたい。というのも、肥後・薩摩・福岡といった九州の〈場〉というものの共通項を考えるからである。それを位置づけるには、存在根拠を述語=場所と無のうちに見出した西田幾太郎の〈場所の論理〉が最適であろう。西田は次の様に述べている。


 「ふつうわれというも物と同じく、種々の性質を含んだ主語的統一と考えられているが、われとは主語的統一ではなくて述語的統一である。一つの点ではなくて、一つの円である。物ではなくて場所である。」(『場所』)


 そしてこの場所が無の場所と呼ばれるのは、それが存在=有の反対の極にあらわれるものだからである、と。つまり、九州の反乱の各場所は主語的な存在感をもち、各反乱の主体はそれによって喚起された述語的存在である、と。また、存在=有への反対の極には「死=無」が当て嵌まるであろう。その九州の歴史意識の流れは、終戦時にマレーシアのジョホールバルで自決した〈日本浪漫派〉の蓮田善明にも受け継がれていたようである。蓮田の詩碑が田原坂に建立されているのも何かの因縁であろうか。

 また、宇気比=祭祈と受取れば、三島由紀夫の恋闕にも連なるものがあろう。

 句集で他に印象に残った作品


   青の世界蝶と小鳥とくちなわと

   黒鍵に触れればほたる舞いあがり

   腿深く螺鈿蒔くようほうたる来い

   向日葵の立ち枯れ仮面舞踏会

   こしょろよこしょろどうしょろか

   夕薄暑どの風向きも異教なる

   白黒の虹なら屋根を飾る猫

   月とるにあばらの骨をそぎ落とす

   DADAや冬瓜つるりと向きを変え

   荒ぶるや我に背もたれ瀑布欲し

   一色ずつ虹をはがせば火傷痕

   この自販機でんでらりゅうばででむしで

   お百度を踏むほど尖る夏薊


 ここまで書いてきて、新聞で神風連資料館の閉鎖を知った。