句集の跋文にて竹岡一郎氏が真摯に正攻法で作品に対峙され、「此の世と彼の世を、・・・あるがままに・・・」と解明されたことで総てが言い尽くされていると思われると共に、それが氏の作者への遺言であるかのようにも思われる。
私としては作者の〈あとがき〉から逆算的に句集を眺めてみたいと考えた。つまり句集名の『情死一擲』が、映画「華の乱」に触発された〈首筋に情死一擲の白百合〉に拠るという自解からである。此の映画の主人公は波乱に満ちた与謝野晶子であるので、白百合は彼女を暗示していると共に、有島武郎・波多野秋子との情死も重ね合わせていると思う。
そこにエロスとタナトスとの狂想が認められる。
エロスを象徴する句としては
太腿に金の雨降る野のあそび
引き籠もるとは貞操帯の冷まじき
生殖器春泥こびりついてをり
ほと深きところに卍春は傷
肉体に関する「太腿・生殖器・ほと」などの性の直截的な語彙や、それに関連する「貞操帯」などの語彙への嗜好は作品に頻出している。それらの性・エロスは生への欲動であり、絵画や音楽のように感覚そのものが作品となっているかに。
生の欲動であるエロスに対して、死の欲動であるタナトスは対立して存在しているのではなく、ここではお互いに抱き合った存在となっている。それは、肉体という概念が人間性全体を覆えない限り、生・エロスと死・タナトスは意識界の外に存在するからであろう。タナトスを象徴する句としては
冬銀河輪投げのように逝くことも
華よ血の香りよ虹に髪浸らしめ
丹塗矢を受け立つ椿流れ着け
首筋に情死一擲の白百合
日常的な意識層をかき回すだけの詩への否定が、非日常のタナトスへと色彩的な視線を投げかけているのであろう。
宇気比にかけ志士冴え返る水鏡
鏡像は花咲く森の死のむこう
青葉若葉詩にただようは死ねの声
神風連への言挙げの作品であるが、作者はそこに西南の役との通底として、文学的な情死・心中を認めている。私はそこに更に秋月の乱を加えたい。というのも、肥後・薩摩・福岡といった九州の〈場〉というものの共通項を考えるからである。それを位置づけるには、存在根拠を述語=場所と無のうちに見出した西田幾太郎の〈場所の論理〉が最適であろう。西田は次の様に述べている。
「ふつうわれというも物と同じく、種々の性質を含んだ主語的統一と考えられているが、われとは主語的統一ではなくて述語的統一である。一つの点ではなくて、一つの円である。物ではなくて場所である。」(『場所』)
そしてこの場所が無の場所と呼ばれるのは、それが存在=有の反対の極にあらわれるものだからである、と。つまり、九州の反乱の各場所は主語的な存在感をもち、各反乱の主体はそれによって喚起された述語的存在である、と。また、存在=有への反対の極には「死=無」が当て嵌まるであろう。その九州の歴史意識の流れは、終戦時にマレーシアのジョホールバルで自決した〈日本浪漫派〉の蓮田善明にも受け継がれていたようである。蓮田の詩碑が田原坂に建立されているのも何かの因縁であろうか。
また、宇気比=祭祈と受取れば、三島由紀夫の恋闕にも連なるものがあろう。
句集で他に印象に残った作品
青の世界蝶と小鳥とくちなわと
黒鍵に触れればほたる舞いあがり
腿深く螺鈿蒔くようほうたる来い
向日葵の立ち枯れ仮面舞踏会
こしょろよこしょろどうしょろか
夕薄暑どの風向きも異教なる
白黒の虹なら屋根を飾る猫
月とるにあばらの骨をそぎ落とす
DADAや冬瓜つるりと向きを変え
荒ぶるや我に背もたれ瀑布欲し
一色ずつ虹をはがせば火傷痕
この自販機でんでらりゅうばででむしで
お百度を踏むほど尖る夏薊
ここまで書いてきて、新聞で神風連資料館の閉鎖を知った。