「塔の会」のこと
合同句集『塔』第11集が刊行された(令和5年12月)。もともとこれは「塔の会」(現在代表は鈴木太郎氏)という句会のメンバーの合同句集であり、5~6年に一度のインターバルでまとめられている。メンバーはその都度変わっているが、50年近い歴史のある合同句集である。協会などの例を除けば大記録であると思う。第10集が平成31年1月刊であったから4年ぶりであるが、ごく普通の刊行日程であり合同句集としては順調な刊行であるが、この第10集から第11集の間は、ほぼコロナの時代であり句会そのものが逼塞していた苦しい時代と言うことになる。
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「塔の会」の発足そのものは古い。第1回の会合は、東京郵政会館で昭和43年2月19日に開催されたのだという。今から57年前のことである。
塔の会の最初期のメンバーは星野麥丘人・原裕・磯貝碧蹄館・岸田稚魚・加畑吉男・草間時彦・八木林之助・轡田進・清崎敏郎・松本旭・松崎鉄之介・成瀬櫻桃子・岡田日郎・鷹羽狩行・香西照雄・林翔の十六人で俳人協会に所属する各結社の中堅メンバーということで、毎月句会を中心に会会が続けられた。
長く幹事を務めた岡田日郎によれば、「会発足の社掛人は草間時彦・岸田稚魚・加畑吉男・鷹羽狩行らで、準備会のとき束京タワーが見えたので「塔の会」と命名したと、私は加畑吉男から聞かされたことがあった,月1回第3金曜日の夕刻から東京郵政会館を会場に十人ぐらいの参加があり、地味な句会が重ねられた。また、この年の終わりごろから有働亨・能村登四郎も加わっていた。当初の幹事役は加畑吉男・鷹羽狩行。」という。
発足後、昭和47年に初めての合同句集『塔』が刊行された(発行5月25日)。林翔が結社別に参加者を掲げているので眺めて見よう(合同句集に出稿していない当時のメンバー名も()で追加しておいた)。これにより当時の俳人協会での勢力図もうかがえるようである。一方で、現在からみても錚々たる顔ぶれであり、この会を通して俳人協会の人材育成も進んでいったことが分かるのである。
馬酔木(有働亨・(千代田葛彦)・能村登四郎・福永耕二・林翔)、鶴(岸田稚魚・草間時彦・星野麥丘人・八木林之助)、浜(中戸川朝人・松崎鉄之介・宮津昭彦)、若葉(清崎敏郎・轡田進・故加畑吉男)、万緑((磯貝碧蹄館)・香西照雄)、氷海(上田五千石・鷹羽狩行)、鹿火屋(青柳志解樹・原裕)、河(松本旭・(渡辺寛))、山火(岡田日郎)、春燈(成瀬櫻桃子)
「火の会」のこと
「塔の会」の初期メンバーは多くがなくなってしまっている(長く代表幹事を務め、本会について最も詳しい岡田日郎氏も令和4年に亡くなっている)。現在の存命作家は鷹羽狩行氏ぐらいであろうが今では話を聞くことも難しいであろう。従って、塔の会の発足は既に霧の中にあるような状況である。しかしこの会の発足には、実は現代俳句協会時代の伝統作家たちの横の交流が関係していることはあまり知られていない。。
「もう十年以上も前(昭和35年ごろ)になるが、「火の会」という会が俳壇の中堅作家達の交流の場として作られ、万世橋に近い柳森神社を会場として毎月句会を開いていた。一番若手であった久保田博(鶴のち沖同人)さんが幹事役で、女流は柴田白葉女さん(雲母)が紅一点であった。文字どおり火花を散らす句会だが、結社の違う人々が集まる会なので非常に刺激になり、且つ楽しかった。
その後俳壇が現代俳句協会と俳人協会とに分裂し、「火の会」も自然消滅したが、これをなつかしむ思いは誰の胸にも埋み火のように残っていた。やがて、当時のメンバーで俳人協会の幹事になった岸田稚魚・草間時彦・加畑吉男・能村登四郎・林翔らと、「火の会」のメンバーではないが、やはり協会幹事の鷹羽狩行らが中心となって、「火の会」と同じ行き方をする新しい会を作る話がまとまり、会員轡田進の世話で会場は芝の郵政会館と決まった。ここは東京タワーの真下である。誰言うとなく会の名は「塔の会」と決まった。
現代俳句協会に残った旧「火の会」のメンバー達も皆伝統俳句作家であるから、旧交を温めたい気持は誰の胸にもあったが、俳壇の情勢にかんがみて、「塔の会」は俳人協会に属する中堅作家の会ということになった。」(林翔「塔の会のこと」)
「火の会」について言及しているのは林翔ばかりである。しかし、現代俳句協会時代にも、伝統俳句作家たちの横断的な交流が行われていたのは事実だ。後に、俳人協会に移籍した人も、そのまま現代俳句協会に残留した人も、彼らの懇親・交流とは句会を囲むことによって実現していた。従って現代俳句協会からの俳人協会の離脱は、これらの人々にとっては不幸なことだったようである。
最後に、第11集に載る作家何人かの作品を掲げるが、今の「塔の会」の会員たちはこうした歴史をどう考えているか聞いてみたいところである。
(以下略)
※詳細は俳句四季5月号参照のこと