2023年10月27日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】⑬ 揺らぎ  板倉ケンタ

  『山羊の乳』を読み、端正な印象を受けた。それは、俳句の作りであり、対象への眼差しである。しかし、良いと思った俳句を引いてみると、およそ本書のサンプルとしては相応しくないであろう句群になってしまった。なんと。なので、開き直って、その抽出した佳句を、逆に「自選15句」を足がかりに分類し直して、本書のどこに惹かれたのかを整理しつつ、自分にもこの句集にも顔向けのできる文章にしようと思うのである。(こんな句集評の書き方はしたことがないから、わくわくしている。)


 まずは、自選15句を示す。


手文庫のうちのくれなゐ鬼やらひ

真昼の日ほどけ落花のひとしづく

アフロディアゐぬかと拾ふ桜貝

我が手相かくも複雑春の風邪

落椿丸ごと朽ちてゆく時間

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

蓮ひらくモノクロームの世界より

月涼し手のひらほどの詩の絵本

サーカスの漢逆さま夜の蠅

夜店の灯にはかに玩具走りだす

コスモスの捉ふる風の高さかな

秋の蛾の影を分厚く旧市街

フェルメールの窓を明るく冬隣

たましひに匂ひあるなら花柊

旅芸人黒き箱曳き冬木立


 大雑把に分類し、所感を述べつつ、事前に抽出した句を鑑賞しよう。なお、分類といっても、形だったりモチーフだったりでカテゴライズしていて、それは互いに独立とは限らない。あくまで大雑把な分類である。


A 季語世界の端からモノ(の発見)を抽出する


手文庫のうちのくれなゐ鬼やらひ

月涼し手のひらほどの詩の絵本

夜店の灯にはかに玩具走りだす


 「季語とモノ」のように完全に分離されず、季語がモノを包摂しようとする懐の深さを得た時に秀句となる。だから、「モノ」部分に重点があるとなかなか難しい。抽出句は、


青蔦の学舎どこよりトランペット

花の種採るほろほろと児の言葉

初富士に向かひ大きな牛の鼻

朝刊をぱりつと開き冷房車


 <花の種>句には、かたわらの子どものあどけなさの裏側に神秘性が感じられ、面白い。<初富士>句のようなおおらかさと景色の落差にも惹かれた。


A’  広い景色を背景に、モノや手元を描く


朝焼や桶の底打つ山羊の乳


 季語は背景にあり、より「モノ」に焦点の当る作り方。Aに比べてそもそもが包摂性の高い季語であるから、多少「モノ」に重点があっても一句として成立することが多いが、だからこそ安易な季語の提示は禁物である。抽出句は、


朝焼や桶の底打つ山羊の乳

大西日飛ぶ鳥長き脚揃へ


 <大西日>句は鷺のような大型の鳥の姿がシルエットとして浮かび上がり、また、あの脱力した細長い脚がよく見える秀句。


B  比較的写生に重点がある


真昼の日ほどけ落花のひとしづく

落椿丸ごと朽ちてゆく時間

コスモスの捉ふる風の高さかな


 季語そのものの様を詠み込む類の句。それ以上あまり説明はいらないか。抽出句は、


雪吊の雪が消えずに乗るところ

あちこちが飛び出してゐて大茅の輪 

移されて金魚吐きたる泡一つ

噴水の天辺砕けまた砕け

飛込みし鳥の重さや花万朶


 <あちこちが><噴水の>などは、おかしみが感じられる。このおかしみは、作者の隠れた(作者はあまり自覚的ではないのでは? と自分は感じている)特徴である。まあ、おかしみというのは俳句という形式の性分でもあるので、個性とはまた違うかもしれないが、しかし惹かれた。<移されて>句は上五が秀逸。<雪吊><飛込みし>あたりは類句がないことはないのだろうが、対象の質感(または量感)をよく捉えている。


C  幻想世界を含む一物仕立


蓮ひらくモノクロームの世界より

たましひに匂ひあるなら花柊


C’  神話世界や芸術作品から想像を膨らませる


アフロディアゐぬかと拾ふ桜貝

フェルメールの窓を明るく冬隣


 CやC’(乱暴にこう括ってしまったが、くくるべきなのは本来BとCである)は、抽出句から当てはまるものは、Cの<黄金虫落ち一粒の夜がある>のみであった。Cは難しいぶん、自分はとても可能性のある作り方だと思っていて、現実世界に幻想への揺らぎがあるとそれは作者の心象世界への揺らぎとなり個性の立った秀句になると言える。C’はもっとずっと難しいと思っていて、というのは、短い俳句形式の中で、そうした引用部分の重み以上の自分オリジナルの詩情を描ききれなければ、それは先行する神話なり芸術なりを間借りしただけに過ぎないからだ。とはいえ、俳人は概ねそういう営みを行なっている。それは「季語を用いる」ということである。季語の大きな文脈の中に身を置きながら、自分オリジナルの詩情を提示する。だから、やり方が悪いということはないのだけれど、有季でかつC’の書き方をするということは二重にそれをやっているということである。だから、ものすごく難しいのだ。後書きなどを見ても、作者はこのやり方にこだわりを持っていることがわかるので、ここから出てくる次なる秀句にぜひ期待したい。


D 自分の身体感覚を内省的に詠み込む


我が手相かくも複雑春の風邪


 ここもあまり説明が要らなさそう。抽出句は、


箱庭の夕日へすこし吹く砂金 

惜春の粉糖すこし食みこぼす


 <箱庭>句で、「吹く」とあるのは、もしかしたら息で吹いているわけではないかもしれないが、自分は息かと思って読んだ。綺麗な仕立だが、嫌な綺麗さではない。<惜春>句では「食みこぼす」が生きている。「食む」という動詞は相当難しいはずだが、ここでは複合動詞で「食む」の様子がよく伝わる。どちらの句も、あまり深刻ではないが、しかし身体感覚が迫ってくる良さがある。深刻ではない、というのは、こういう句において重要だろうと思う。


E  人間くさい世界を詠み込む


サーカスの漢逆さま夜の蠅

秋の蛾の影を分厚く旧市街

旅芸人黒き箱曳き冬木立


 人間の様子を描いているが、この季語の「同居性」とでも言おうか、ぽつんといてくれるような描き方が良いと思う。抽出句は、


ガチャポンの怪獣補充炎天下 

サーカスの漢逆さま夜の蠅 


 こういう人間が出てくる作品が、特に端正な本書の中で切れ味を発揮していたように思う。<ガチャポン>句は中七の脚韻が楽しく、怪獣という単語から、その怪獣が壊してきたであろう都会の風景(例えば、秋葉原)が見えてくる。この句は一義的には補充するという労働の厳しさを描いていると読めるが、破壊される対象の街の小さな一部分に怪獣が収まっていることの面白さも、深読みすればあるかもしれない。


 さて、ここまで読んできたが、最後に、この作者に伸び代があるとすればどういうところか、自分の思うところを述べたい。それは、「型」に対する向き合い方である。「型」とは、五/七/五という音の話でもあり、「取り合せ」「一物仕立」といった技法の話であり、本質的には両方である。

 試しに、先に挙げた自選句を見てみると、季語が上五、または下五にある作品が実に15句中14句を占めており、中七にあるのはわずかに<真昼の日ほどけ落花のひとしづく>のみである。この「季語の五音」と「十二音」がかっちりした型の中で徐々に亀裂を起こし、途切れ途切れの印象になっているとすると、非常に残念なことである。形がしっかりしていることが悪いのではなく、群で見た時にしっかりし過ぎているということなのである。

 俳句は五/七/五と言われるが、言葉同士はもっと複雑に関係しあっている。総体として滑らかであり、揺らいでもいる。

 先に挙げた<ガチャポンの怪獣補充炎天下>も、良い句だとは思うが、例えばあの暑い街の陽炎の立つような熱気は、実はもっと揺らぎがある調べに乗ると見えてくるかもしれない。Cのところで述べた「揺らぎ」も、第一義こそ違うものの、本質は同じところにある。よりもどしが欲しいのだ。

 そんな揺らぎは、どうでしょう? 渡部さんには似合わないかなぁ……


執筆者略歴
板倉ケンタ(いたくらけんた)
1999年東京生。「群青」「南風」所属。俳人協会会員。
第9回石田波郷新人賞、第6回俳句四季新人賞、第8回星野立子新人賞。