角谷昌子氏の跋文は、棟方志功の女人画や縄文のイメージを重ねて本句集を読み解いている。故郷を力強く詠う作風や、叙法の上での力強さも併せて納得の指摘であった。筆者なりにこのイメージを言い換えると、地に根の生えた句、根無し草的ではない句、ということになるのではないかと思う。十七音の中に季題が入っていて、その距離感や言葉の言い回しが面白い、ただそれだけの作品ではない。主体と環境が相互作用する結節点としての一句と言おうか、それゆえに作者の境涯の香りもほのかに漂う作品が並んでいる。
「根無し草的でない」という印象をもう少し突っ込んでいえば、自らのルーツへの意識が詠み手の輪郭を彫琢しているように思われた。その意識は故郷とそこに累代住まってきた血族、そこから家族、そして命全般へと広がりを見せるようでもあり、著者独自の探究の取り組みが窺われる。つまり「地」と「血」への意識を背景に「命」をとらえてゆく態度である。タイトルとなった〈火の貌のにはとりの鳴く淑気かな〉など、著者の師系を感じさせる生命諷詠の句と言えよう。
「地」と「血」への意識を背景に「命」をとらえてゆく態度は句集刊行後、俳人協会新人賞受賞第一作「青の続き」(「俳句」2021年4月号、151頁)の第一句、
はうれん草血のざわざわと流れたる
にも作者の個性として保持されているようだ。
標題について説明しておこう。「内側の視線」という言い方で意図したのは、故郷や先祖に対し、当事者としてずぶずぶ没入してゆくような視線である。一方「外側の視線」という言い方で意図したのは、日本の風土、生命の強さ等々に読み手が期待しがちなものが投影されたような見方である。曖昧な概念対であるが、読者を意識しすぎても、自己表現を意識しすぎても、どちらかに振れ過ぎると平凡あるいは奇怪になりやすいのは衆目一致するところだと思う。
本稿は句集を内側・外側という二つの視線に着目しながら、印象的に詠まれる「地」と「血」への意識に目を向けたい。
第一章をはじめ句集前半では「これでもか」というくらい外部の視線を意識した故郷の表象が勝っているようである。
開墾の民の血を引く鶏頭花
血統の細くなりゆく手鞠歌
いずれも本州の郡部の実感として「いかにも」であると同時に、「まさしく」と共感を呼ぶ句と言えよう。季題もいささか劇的と言えるくらいに効いているが、絶叫というわけではない。読者の目を引く句である。どちらの句も自らの血統を直截に言って季題を配している。一句目の「引く」も二句目の「ゆく」も共に終止形と連体形が同形であり、季語にかかってゆくような感覚も起こさせる。鶏頭の赤に対する血、正月遊びに対する死者の記憶や生者への思いなし、これらはいささかわかりやすいくらい、共感を生む故郷詠だと思う。
巧みに共感を引き起こす演出は、一歩引いて見ているからこそなせる技であろうか。肌でとらえる思いにならない思いや皮膚の感覚を外部の人にもわかりやすくキャッチーに命題化し、さらに俳句に組み込んでゆく。そのような意味で、「外部の視線」を感じる作品である。
むろん、内側/外側という区別は絶対のものではない。たとえば
柿若葉先祖に詐欺師ゐるらしき
絡み合ふ神の系図や冬の雷
「先祖に詐欺師ゐるらしき」「絡み合ふ神の系図」のようなあけすけな詠み方は、対象を卑近なものとして、飾らずに見なければ出てこない。そしてこれら自体は内側の人間の視線でなくては出てこなさそうな言い回しながら、柿若葉のつやつやした輝きも、冬の雷の鋭さも素材をべたつかせない、外部の人が心地よく一句を楽しめるだけの絶妙な配合である。上五の季題が仮に「葉鶏頭」であったらどうだろう。掲句のように昔語りとして「ふうん」と聞くくらいの態度としては読まれないはずだ。二句目の神々の系図の混乱具合にも、冬の雷、重たく降り積もった雪の寒さの中に突如走る雷の音が潔く、いかにも今まで気づかなかったのだ、という気分的な軽さが加わる。古い土地神を祀っている神社には祭神をあとからこじつけた神社も多いが、シニカルな視線もあるようで、「血縁・地縁にずぶずぶに入り込んでいるのではなく、一歩引いた態度をとっていますよ」という読者を引かせすぎない態度が見える。
「マニュアルの範囲内で少しだけ冒険するのが楽しい」(「俳句」2021年4月号、150頁)と語る著者らしい、わかりやすく、また上手さもあり、共感しやすい作品が多い。
この印象は、「地」と「血」という作者の好むごつごつしたモチーフの少ない第二章においても同様にある。第二章では、自然観照の深さ、描写の巧みさ、皮膚感覚、あるいはアニミズムなど、ますます俳句らしい妙味において、さまざまな者どもの命を描いている。取材の幅が広がり、技術的に目を引く句が多い。地と血に対する意識は一度背景に消え、のびのびとした魅力のある章だと思う。
石のこゑ木のこゑ蝌蚪の生まるらむ
東京の空を重しと鳥帰る
溶岩の緻密なる影蠅生まる
さざ波の幾重を抱き白牡丹
破魔弓や我に向かひて波来たる
第一句の「こゑ」と第二句の鳥への感情移入、第三句の取り合わせ、第四句は水辺の牡丹か、感覚の冴えに目が覚めるようである。第五句、破魔弓が何か力を持っているかのような一句。
歴史趣味的な作品として〈菖蒲田の合戦絵巻広がれり〉〈七夕や手擦れ少なき宇治十帖〉、臨場感のある〈ネックレスの不意に重たし夏の鴨〉〈かはほりや鎖骨に闇の落ちてくる〉、言葉の巧みさに唸らせられる〈空つぽになるまで秋の蟬鳴けり〉〈煮大根家は壁から老いにけり〉〈巻き戻る弾力に満ち初暦〉も挙げたい。
これらの作品も、実体験として読者に読ませる内容ながら、かつ外側の視線に立ってわかりやすく、重くなりすぎずに、その場所や命を詠む……という巧さがある。
しかし第三章になると、筆者のいう「内側の視線」の傾向が強くなるように思う。〈よなぐもり拷問具めく千歯扱き〉はいささか激しすぎるくらいの眼差し。「後半に進むに連れて草田男帰り」という本書への評を見たが、内側にある詩魂の燃焼が前半に比して強いように感じられる。
夏至の夜の半熟の闇吸ひ眠る
菜の花の黄は鶏鳴を狂はする
第一句の「夏至の夜」の艶めかしいほどの迫力、二句目の「菜の花の黄」の眩しすぎるくらいの言い留め。やや主知的とも見える前半に比べ、身体の感覚で摑んだものを思い切り引き絞って放ったような思い切りがある。
しかし詩魂の内燃といっても、形の上では往年の草田男のような激しさというより、もっと静かな印象である。翻って「地」と「血」という補助線を引いてみると、この変わりようと呼応するように、命、そしてその裏返しの死がしずかに詠まれはじめていることに気づく。
風のごと夫に寄り沿ひ水芭蕉
枯蔦の包む立退き拒否の家
福寿草金魚の墓に群れてをり
前半の作品と比べてみれば一目瞭然。〈柿若葉先祖に詐欺師ゐるらしき〉のような自らのいのちへの態度は「風のごと」というさらりとしたものに変化し、〈血統の細くなりゆく手鞠歌〉のような嘆きはやさしく〈枯蔦の包〉みこむ。
このような変化の背景としては介護の経験も大きいのであろうか。
熱帯魚眠らぬ父を歩かせて
芋刺して死を遠ざくる父の箸
松影や破魔矢を挿して車椅子
第二句〈芋刺して〉にはユーモラスな見立ての中に切迫した父の心、子の心が融けあっているようで、作者の心までも投影した写生句といえよう。句集の一つの到達点であろう。介護を経て、もともとあった「いのち」というテーマの中に「死」もまた意識され、「血」と「地」というモチーフは生と死という大きな背景となって機能しはじめているようだ。
第四章を見てみよう。介護から看取りへとステージが進み、「血」や「地」の扱い方は前半と比べると、表面上はあっさりながら、内側のセンチメントが滲み出て感動を誘う。
鮎跳ぬる血より濃き香を放ちては
人の住む限り電線秋桜ほたる
ほたるぶくろ無口な車椅子濡らす
涼しさよ骨砕かれて収めらる
噴水に少し遅れて笑ひけり
血の通ふまで烏瓜持ち歩く
さざなみや凍つる絵の具を絞り出す
どの句も殊更解釈を重ねるまでもないだろう。〈血の通ふまで烏瓜持ち歩く〉における「血」の温かみ、命への実感。第二章に〈芋の露ゆらして命与へけり〉という句があるが、〈芋の露〉の句の思想性より、人生体験の万感をろ過して気づいたような〈烏瓜〉の句の皮膚感覚に筆者は惹かれる。著者はたびたびさざ波を詠んでいるが、第四章の〈さざなみや凍つる絵の具を絞り出す〉と第二章〈さざ波の幾重を抱き白牡丹〉を比べると、対象を自己へ引き付ける磁力が増し、その分思想や理知の力におんぶしないような作り方に変わっているようで 印象深い。それは、冒頭の私の言葉でいえば、外側の視線ではなく、内側の視線へのコミットメントが強まり、結果的に内側の視点と外側の視点が相即している、ということになる。
くもりなき遺影を抱へ年歩む
今宵もや寝息を吸ひにふくろふ来
火の貌のにはとりの鳴く淑気かな
掲げた三句は、いわゆる気の利いた、適度にひねった言い回しもある。「くもりなき遺影」「寝息を吸ひに」「火の貌」などである。しかし、当事者でない外側の人を意識して拵えたという感じは一切ない。
梟の飛来する宵の景色も、初鶏のまとう空気感も、それらに通底するいのちの実感も、読み手が読みたい、聞きたいものである。しかし自利即利他というような、作者のこころがそのまま読者の感動になるような境地に達しつつあるのではないか。
自分の置かれた環境に共感と愛情をもつことは、それ自体が個性となりうるし、自然界とそれに影響される人間の営みを扱う俳句にとって大切な態度である。しかし、あまりに外からの視線を意識し、風土の上っ面に耽溺しても普遍的な共感は呼ばない。個性や地方色の表出を突き抜けて、小さな個性を脱却にしたところに、その人の作品は完成するのではないか、とぼんやり考えている。そして『火の貌』はそのような関心を共有するすべての者にとって、自身の俳句修行の里程標を示してくれる句集であると思われるのである。
プロフィール
浅川芳直(あさかわよしなお)
・1992年生まれ、宮城県出身。
・「駒草」所属(1998年~)。「むじな」発行人(2017年~)。
・2020年、第8回俳句四季新人賞。
0 件のコメント:
コメントを投稿