ぴったりの箱が見つかる麦の秋 (p104)
句集全体を貫いているのは、作者自身の身体への思いである。ときに愛おしくときに疎ましいからだ。「ぴったり」と言えるようになるまで、現実の身体と自認の身体との間にあるズレを見つめ句にした。
薔薇百本棄てて抱かれたい身体(p44)
少女にも母にもなれずただの夏至(p49)
骨盤が目覚めて三月の体(p96)
リストカットにて朧夜のあらわれる(p126)
順番はともあれこれらの作品は作者が作者自身の身体を受け入れる道程であったように思われる。ことばを道具として現実を見るることで現実が変わり、その現実が自認を変え、現実の見方を変える。この果てしない循環の結果、あるべき身体と現実の身体との折り合いがついて「今のところ」「ぴったり」の居場所を見つけたのだ。
なつの句からは身体に封じ込めらた身体への強い思いが、更に言えば愛着だけではなくその思いのもろさやねじれが根底に読み取れる。意外なことに自己肯定的な句はほとんど見当たらないのである。なぜ作者がこれほどまでに思い通りにならないものとして身体を感じ取ったのか。あるべき身体と今ある身体とのずれに敏感になったのか。それは作者の女性性に基づくものなのだろうと推測はするが、それが生理的なものなのか社会的なものなのか、その答えが語られることはない。たとえ「リストカット」を詠んだとしても、あくまでも日常のことばでさらりと詠まれる一連の句は読者ののぞき見的憶測を軽やかに拒絶する。思いの深さは言葉の重みとは必ずしも一致しないのだ。内心がどうであれ、なつの中で何かが融合し昇華し「ぴったり」という感覚にたどり着いた。その過程で数々の秀句が生まれたに違いない。
だが、と筆者は思う。なつにとって他者とは、外界とはどういうものなのだろう。
結論から言えば、なつにとっての外界とは本質的に個性のない存在である。外界との関わりや他者との関係性を前提とする「愛」はなつの「箱」の外側であり、少なくともこの句集のテーマではない。
留守電にカナリアの声秋北斗(p24)
アスパラガス愛にわたしだけの目盛り(p70)
日向ぼこ世界を愛せない鳩と(p87)
照準はいつもわたしに百合開く(p105)
檸檬切る初めから愛なんてない(p141)
ここで興味深いのは身体の句と並んで恋の句が多いことだ。恋を真っ正面から詠むのは大人にとってこそばゆいものだ。だがなつが詠む恋は自己完結的であり、そこにいくばくかのリアリティーはあるにせよ現実や恋人との関係性、背景、生々しい身体性を切り落とした「絵に描いた」恋である。従ってそれはしばしば失恋とセットである。
自分が自分ではなくなること。それは恋の本質でもあろうが、作者の身体へのアンビバレントな感情を思うとき、恋という言葉の甘さとは裏腹になつにとっての恋は現実と自認の隙間を詠むための読者への、いや作者自身への仕掛けなのだろうと思わざるを得ない。
花粉症恋なら恋で割り切れる(p13)
靴音を揃えて聖樹までふたり(p36)
片恋や冬の金魚に指吸わせ(p60)
ミモザ揺れ結末思い出せぬ恋(p68)
五月来る君をすとんと呼び捨てに(p71)
合鍵を捨てるレタスの噛み心地(p100)
喉滑る生牡蠣のよう失恋は(p119)
とはいえ作者は自己の世界に安住しているわけではない。それはおずおずと伸ばされる「手」や「指」の句から読み解くことができる。手や指は外の世界に触れるための最も鋭敏な触覚器だからだ。なつの視線の先には外の世界が確かにある。
鍵探す指あちこちに触れ桜(p70)
指先がふいに臆病ほおずき市(p73)
てのひらは毎朝生まれ変わる蝶(p124)
花万朶小指で掻き乱す水面(p125)
現実の身体を受け入れる道順を手に入れたなつ。それは同時に身体を取り巻く多種多様な矛盾する外界をも受容することに他ならない。飛び立つための準備は整った。
夕花野ことば何処へも飛び立てず(p79)
こう詠んだなつがぴったりの箱から出てどうやって外界に向き合っていくのか。あるいは箱をどのように変容させていくのか。なつの長年のファンとしてはこれからがますます楽しみである。
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