なつはづき句集『ぴったりの箱』から上の24句を選び、心ゆくままに、「なつはづきワンダーランド」を巡りました。なつはづきの見事な言葉さばき(レトリック、言葉の綾)から姿を現した、驚きの世界をご一緒にお楽しみください。
句集最初の句です。
いぬふぐり聖書のような雲ひとつ
いぬふぐりという言葉とかわいらしい花から来る軽いエロスを、聖書と釣り合わせるという軽妙な言葉の世界があります。
聖書は、もちろん禁欲的な世界を象徴しています。その聖書と釣り合わせるために、「聖書のような雲ひとつ」とつないで、それを実現しています。一句の聖書は、雲でできていますから、軽くて柔らかな聖書です。
また、「いぬふぐり」は、上五に来ていますので、本当は小さいのですが、句では大きく見えます。これも「いぬふぐり」が、無理なく「聖書のような雲ひとつ」という大きなものと釣り合っている理由の一つです。
なつはづきの言葉さばきの素晴らしさが巻頭から現れています。
かわいいいぬの次の句は象です。
象の背に揺られ春まで辿り着く
象の背に揺られ京まで辿り着く
ではありません。これが、この句のいのちです。地上の地理的な距離ではなく、春までと時間的な距離にひねったところが面白いです。もう一つ、
象の背に揺られ冬まで辿り着く
ではないところにも注目してください。この句の象の背に揺られ旅する人は、寒く厳しい冬を耐え、やっとのことで花々が咲き匂う春まで辿り着いたのです。喜びもひとしおでしょう。また、
馬の背に揺られ冬まで辿り着く
でもありません。馬の背では、低すぎるのです。世界を見渡すためには。
花散る中、白い象に乗って人々を助けに現れる普賢菩薩に似ていなくもないですが、「辿り着く」ですから、違うでしょう。
春は、のどかさと悲しさの入り混じった季節でもあります。
菜の花やこの先にある分かれ道
見渡す限り黄色の菜の花。それは、今、春ののどかな平和な平凡な美しさをたたえて咲いています。しかし、その菜の花の中の径を行けば、その先には、分かれ道があるというのです。あたりまえの幸福の先の、愛する人との再び会うことのない別れを暗示した余韻のある句です。
黄砂降る日も、余韻のある句です。
約束は確かこの駅黄砂降る
来るはずの人の来ない駅には、遠いところからやってくる黄色い砂が降るだけ。黄色くかすむ世界には、むなしさだけが漂っています。プラットホームに打ち捨てられた黄色い砂にまみれた「約束」という文字が見えてくる一句です。
黄砂のあとは、世界が清く明るくなり、遠くまで見渡すことができる節気。希望に満ちた清明の句です。
清明や自転車隅々まで磨く
清明とは、二十四節気の一つで、春分の次です。春のそんな節気に自転車を隅々まで磨くという。自転車はもちろん世界の隅々まで行くためのもの。遠く見渡す限りピカピカの世界の果てまで、自転車をピカピカに磨き行こうとしているのです。もちろん、ピカピカに磨かれて自転車は、透き通るように美しく明るくなります。清明のように。
*
なつはづきワンダーランドでは、なぜか恋は、喪失感にあふれています。
身体から風が離れて秋の蝶
和泉式部の歌を思い出しました。
物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂(たま)かとぞ見る 和泉式部
「愛しい人を思いわずらえば、沢で光る蛍も私の身体からさまよい出た魂かと見えるのです」といった歌です。もう一つ、池田澄子の
体からこころこぼれて花は葉に 池田澄子
です。
明らかに、これらの表現の伝統のもとにある句でしょう。
さて、秋の蝶の句ですが、二つの出現の連続によってできています。
まず、「身体から風が離れて」です。身体から風が離れて、現れるのです。これが無理なく行なわれるのは、「からだからかぜが」のか(が)音の連続です。この音の連続によって、読者は自然に、身体から風が分離し、現れることに納得します。
次の出現は「風が離れて秋の蝶」です。身体から離れた風から秋の蝶が現れるのです。これは、秋になり元気がなくなった蝶がひらひらと風に乗って現れたと読めますので、すなおに納得できます。
これを全体として読みますと、身体から静かに離れて吹いた風が秋の蝶になって現われ出たということになります。内なるさびしさが秋の蝶として形を与えられた句です。
さびしさの出所がはっきり書かれた句もあります。片恋です。
片恋や冬の金魚に指吸わせ
片恋や挿絵のような咳ひとつ
冬浅し聞かずに入れる角砂糖
このいじらしい行為をさせる男は、どこのどなたでしょう。といっても、この片恋もなつはづきワンダーランドでの出来事ですが。
*
めずらしく政治を思いました。
寂しいチェコ語十一月の森に入る
寂しいチェコ語と言われると寂しくなります。チェコの寂しい歴史が思い出されるからです。プラハの春です。その寂しい歴史を背負ったチェコ語が寂しい響きを残して冬の始まる混じりけのない十一月の寂しい森に消えて行くのです。十一月革命とは一体なんだったのでしょうか。冒頭の「寂しい」が全句を覆っています。
*
なつはづきワンダーランドは、狐火や鬼火が行き交う世界です。
狐火が集まるクリームシチューの日
狐火がクリームシチューを好きだなんて知りませんでした。一体このクリームシチューを作る人はどんな人なんでしょうね。若い人が好きな魔女でしょうか。いや、きっと男を数えきれないほど泣かせてきたとても魅力的な女性に違いありません。
青白い炎の向うに未練がましい狐の顔をした成仏しきれない男が見えます。男達は未練がましく狐火となってクリームシチューの日に集まってパーティをするのです。
では、なぜクリームシチューなのでしょう。それはあのねっとりした白いクリームシチューは、男にとってとても官能的なのです。官能的な食感に加え、食べればのどが火傷する快感がなんといえないのかもしれません。狐火なのに。
だから、新しい恋人の出現に、狐火たちは消えてゆくのです。
君に電話狐火ひとつずつ消える
狐火の仲間に鬼火がいます。これも死者の魂が炎となって燃えているものですが、狐火より怨念がこもっていそうで怖い感じがします。
鬼灯やまだ濡れている人の声
この句、鬼火の句じゃなくて鬼灯(ほおずき)の句じゃない? といわれそうですが、いえいえそうではありません。死者の霊を迎える朱の鬼灯(ほうずき)の向うに文字通り死者の情念がこもった炎である鬼灯(きとう)が燃えています。鬼灯とは鬼火のことです。
「鬼灯やまだ濡れている」で、雨が降ったあとまだ乾ききらないで濡れたまま死者の霊を迎える鬼灯(ほおずき)と、濡れたまま燃えている死者の魂、鬼灯(きとう)のいる世界のすざまじさを思ってください。
そして「まだ濡れている人の声」で、この世の人の声は、未練がましく、いよいよ艶っぽくなります。この世とあの世の交歓の句です。怖いですね。
このように鬼灯を「ほおずき」と「きとう」の二つのイメージを重ね合わせて読むと、鬼灯の句がより怖くなります。
階段の青鬼灯を濡らすなよ 岡本亜蘇
うすものの如き鬼灯ともりけり 阿波野青畝
うたたねの唇にある鬼灯かな 三橋鷹女
怖かったですね。次の近松の句も怖いです。
近松忌まだ生温いナイフの柄
近松死して三百年、なおも心中物の熱気が冷めやらぬ今日、ここ五七五の世界にも生温かい脇差ならぬナイフの柄があります。心中をして間もないナイフの柄です。近松忌とナイフを生温いという動詞で統一し五七五の世界を作ったのは見事です。
心中と言えば、近松忌の句を読んだあとで、この句を読むのはどうでしょう。
黄落や明日はと言いかけて止める
「明日は」のあとは、もちろん、「一緒に死んでもらえますか。」でしょう。黄泉へ行く黄落の中で生を止めるのです。
*
「生温い」に見られるように、ひとつ前の近松忌の句もそうですが、なつはづきの句は、官能的です。官能的とは、エロスを含めてですが、身体感覚的だということです。
その傑作が、次の句でしょう。
リストカットにて朧夜のあらわれる
自傷行為の果てに現れる甘美な官能的な世界です。朧夜と名付けられた希薄なまでに美しい世界です。一歩死の甘美さに近づいています。
銃口という
銃口という
美と死を体現する雪女もこのワンダーランドに登場します。
雪女ホテルの壁の薄い夜
官能的です。美と死の化身、雪女の気配が、ホテルの部屋の四方の薄い壁からひやひやと感じられる夜は、夜そのものが薄い希薄な存在となるのです。では、なぜ夜が薄い希薄な存在となるのでしょう。もちろん、夜が、震い付きたいほど美しい雪女に恐怖したからです。
*
同じ雰囲気をもった句がこちらです。
初氷心療内科の青いドア
まず目に入るのは、「氷心」という文字です。初氷は、氷心を出現させるための現代の枕詞でしょうか。しかも初ものは、初雪を待つまでもなく、けがれのないものです。無垢な初氷のような凍った心の持ち主が、今、心療内科の青いドアを開けて凍った心の内部に入って行こうとしています。どこまでも青い憂鬱な世界へ。
ワンダーランドには接骨院もあります。
永き日よ接骨院の名は「バンビ」
この句の味噌は、「バンビ」というカタカナです。このカタカナが、一句にリアリティ、真実味を与えています。バンビは小鹿、飛び跳ねるもの。この「バンビ」も飛び跳ねるもののはずです。しかし、上に接骨院という言葉がありますから、カタカナのバラバラ感と相まってカタカナの「バンビ」は、骨そのものです。そして、骨のバンビは哀れにも柵の中なのです。
柵がどこにあるのかって? あるでしょう。「」が。まさに、そんな世界が、ぼーとした春のある日にずーとあるのです。なんという造形感覚の持ち主でしょう? なつはづきは!
そういえば、永き日にらくらく柵を越えて行ったにはとりがいました。
永き日のにはとり柵を越えにけり 芝不器男
柵を越えて、にはとりは何処へ行ったのでしょうか。
ちょうどそのころ、このワンダーランドから、消えたものがあります。私は、これは本当はにはとりではないかと疑っています。
運動会朝から鳩をみていない
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いよいよ、ワンダーランド巡りも終わりです。素晴らしい句にしっかり触れて、外の世界にもどりましょう。
ふと触れる肘ひんやりと原爆忌
得体のしれないものに肘は偶然触れました。そのとき、肘は、確かにひんやりと感じたのです。すぐそこには、ひんやりと原爆がありました。原爆忌を身体でとらえた貴重な句です。
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香水瓶時効はわたしから告げる
擬人法の句として読んでみましょう。この方が断然面白いので。
一段高い所に置かれた(上五にあります)香水瓶が、ある日突然、御託宣をのたもうたのです。「時効はわたしから告げる」と。
「わたし」とは言うまでもなく香水瓶です。恋人と会う時にいつも肌にふりかけられ、彼女を荘厳(しょうごん)する(美しく尊く飾る)香水の大元、香水瓶がおっしゃるのです。
時効とは、何かお分かりですね。元彼との浮き名がなかったことにすることです。それは、瓶の中の香水が改めて彼女の次の人生、即ち、次の恋を荘厳する時です。
*
ワンダーランド最後の句です。
パセリ大盛りまっさらな猜疑心
パセリだけが真(ま)っ白な大皿(さら)に大盛りになった光景は普通ではありません。その「パセリ大盛り」で、普通でない世界に読者を引き入れます。
普通でない世界では、大盛りなったパセリは、まっさらなけがれのない猜疑心そのものなのです。ざわざわと大きく盛られた、生き生きした鮮やかな緑色が、まっさらな猜疑心そのものとなって読者に迫ります。そのけがれのない猜疑心をいだくことに、人間らしさがあります。獣編犭と靑からなる猜という字がリアルです。
パセリを身体的、官能的に捉えることに成功した句です。
上下感を持つ縦書をうまく使い、新緑でパセリというカタカナ語を染めただけの鷹羽狩行の
摩天楼より新緑がパセリほど 鷹羽狩行
に飽き足らない方には、お勧めの句です。
鷹羽狩行の摩天楼の句まで来たところで、今回の私のなつはづきワンダーランド巡りは、おしまいです。いささか歩き疲れました。
ではまた、次回お会いしましょう。
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