マルホ株式会社という医薬品会社がメセナ活動の一環として行ってきた「俳壇抄」という雑誌(年2回刊)が終刊した。多くの結社誌の紹介・広告記事を載せているもので、明確な編集方針を持つ総合誌(商業誌)とは趣を異にするが、雑誌の規模と関係なく1誌に1頁を割り振る民主的な編集方針と、発行元である編集室が記事内容に関与していないと言うことにより、資料的価値は高い雑誌であった。最終号で411誌、おそらく日本全国の俳句雑誌の半数近くが収録され、若葉、万緑、鷹、岳、未来図、百鳥、山茶花、などの著名な雑誌から、鬣、未定、LOTUS、吟遊、船団、豈まで、リアルタイムで活動が報告されていた。その意味で「俳句朝日」や「俳句研究」の終刊とは又別の意味で時代を感じさせるものであった。
もともと、マルホの名誉会長高木青二郎という強力なオーナーの主導で始められた事業だけに、そのオーナーが亡くなるとともに事業の見直しが行われ終刊に至ったものと思われる。確かに、医薬品会社のメセナ活動としてこうした事業が合理的であったかどうかは、企業論理に立ったとき疑問もあるかも知れない。
ここで引き出しておきたいことは、一見まだ盛んであるように見える俳句界も縮小に向って動き出していると言うことである。実際「俳壇抄」終刊号にさえ、長い号数を自祝する記事の雑誌の一方で、歴史ある「アカシヤ」などの終刊が告げられている。
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北海道では名門であるらしいこの雑誌は、主宰(三代目の松倉ゆづる氏)の健康理由、会員の減少と高齢化で次第に継続困難となり、これに対処する打開策もなく、同人総会で終刊を決定したという。主宰の言葉によれば、漫然と大黒柱に寄りかかってきた反省があるが、時すでに遅しであったという。これからは伴侶を失って以来再び孤独の世界に戻り、実作者としても発表の場を失うことになるだろうと嘆いている。
同じ言葉を、昨年八月に終刊した「浜」について松崎鉄之介が語っているのを思い出した(「俳句界」平成25年9月号)。
「昭和五七年八月に亡くなった大野林火先生のあとを継いで、これまで三十一年間やってきましたが、会員もだいぶ減ってきましたし、もう僕も九四歳となり体がもたなくなってきたからね。八月号で最後にしよう、ということになったんですよ。」
「会員も、みんな老体だからね。句会をやるのにも、夜より昼間の方がいいと言われて、昼間に句会をやる。そうすると当然、現役の人は参加出来なくなる。若い人が増えない。悪循環ですね。だから今「浜」に残っている人は高齢者ばかりです。ここ二三年特に顕著になりましたね。認知症になる人も多くなってきたし、ぽろぽろと欠けていくんですよ。もう結社の経営が立ち行かないんです。」
「去年は三〇〇万円の赤字を出しました。・・・浜の事務所が八丁堀にあったんですが、今年売り払いました。三〇年間使ってきましたけれど、売ってしまえば、その分の経費はかからなくなるからね。」
「事務所がなくなってしまったから、編集やそのほかの作業を僕の自宅で作業するしかない。しかし、横浜の僕の自宅まで来られる人がいるかというといない。みんな来るのが大変だし、来ることが出来ても僕は一人暮らしだから接待する人もいない。そういう訳で、仕方がないから廃刊にしようと思ったんです。句会指導もうしていません。足が悪くて思うように動けないんですから。」
これから続々とこうした雑誌が出てくるに違いない。「俳句年鑑」など<全国結社・俳誌の一覧>では現在出されている雑誌をとらえているが、終刊された雑誌は把握されていない。現在出ている雑誌は主宰や編集人等書くべき人がいるが、終刊された雑誌は書く人がいないからだ。「アカシヤ」や「浜」のような声が残るのは珍しいことに違いない。しかし、延命に何が必要なのかを知るためには、滅んだ雑誌の知恵を学ぶ必要がありそうだ。これは一雑誌の運命ではない、俳句全体の運命を言うのだ。芝不器男賞の曽根毅や田中裕明賞の西村麒麟がいくら登場しても、実はこのように華々しく出ていないところで、俳句界は着実に縮小している。俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会の平均年齢75歳というデータの突きつける冷厳な真理なのである。
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私は以前から「雑俳」に関心を持っていた。雑俳とは川柳もその一つに入るかも知れないが、どちらかというと川柳を除外した、遊興的な俳諧文芸といえるだろう。上五文字の出題に、中七下五の七五をつける「冠句」などがその代表例である。実はこの雑俳は江戸時代末期空前のブームとなり日本全国で普及し、川柳は愚か、俳句(当時は俳諧といった)にさえ匹敵するブームを呼んだ。全国に雑俳師があふれかえり、巨大な興行が行われていたのである。俳句が雑俳に影響を与えたのは間違いないが、実は江戸末期には雑俳が(子規以前の)月並俳句に大きな影響を与えている。こんにちの句会のやり方など雑俳の影響の下に生まれているのである(芭蕉の時代に、連句の座はあっても、今日のような句会があったとは思えないはずである)。
この雑俳は地方ごとに特殊な発展を遂げて、近代冠句・国風冠句・岐阜狂俳・尾張狂俳・土佐テニハ・淡路雑俳・肥後狂句などがあることが分ったが、その一部は戦後、滅亡したり、衰亡したりしている。私はこれらを資料に照らして見ることにより、「ジャンルの滅亡」がどのように進むかを知りたいと思った。もちろん、上の「アカシヤ」や「浜」のように会員の減少と高齢化と経営難・人材難が進んでいることはすべて同じであるが、さらに自分たちのジャンルをよしとする自己言及の増加(今日の俳句界で言えば伝統への回帰)や、他ジャンルへの無関心がそれと併行して進んでいたことが分ったのである。「会員の減少と高齢化と経営難・人材難」が現実の症状だと知れば、これらは深い病巣であったということが出来るであろう。健全なるジャンルであれば、つねに外部の刺激を受け入れて細胞を活性化していたはずなのである。前衛俳句時代とは、前衛俳句が隆盛し正しかった時代を言うのではなくて、前衛俳句と共存して俳句(伝統俳句といおうか)が存在したことが、俳句の健全性を保証していた時代を言うのである。
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