『新撰21』(共著、2010年、邑書林)は、21世紀にデビューしたU‐40世代21人による1人100句収録のたいへん話題を呼んだアンソロジー句集で、その若手俳人の1人である佐藤文香さんは、もうすでに刊行されていた第1句集『海藻標本』(2008年、ふらんす堂、宗左近俳句大賞受賞作品)で名を馳せていた。
『新撰21』の佐藤文香俳句には、その第1句集『海藻標本』収録の「少女みな紺の水着を絞りけり」など名句も沢山あった。
それらには、触れられていない2002年の第五回俳句甲子園の団体準優勝、最優秀句に選ばれた佐藤文香俳句もとても鮮烈な佐藤文香さんの代表句のひとつ。
夕立の一粒源氏物語
葡萄ひと房のような夕立に遭遇する。それは、まるで源氏物語の恋物語のひと粒のようでもある。紫式部の『源氏物語』のような小説を書きたいと思い描きつつも書けない日々を過ごす私にとっては、17音の俳句に凝縮された佐藤文香俳句の鮮烈さにカメレオンのように舌を巻いたものだ。
今年、2024年に刊行された詩集『渡す手』(新潮社)で中原中也賞受賞。
同時期に『こゑは消えるのに』(2024年刊、港の人)を出版している。
云うまでもないが花のある作家だ。
今回の私の句集鑑賞は、この『こゑは消えるのに』なのだが俳句も、もちろん良いのだが、写真も掲載されていて良い感じなのだ。
アメリカ句集とあるように2021年10月から2022年9月までの1年間、アメリカの西海岸、カリフォルニア州のバークレーに住んだと後書に記されている。
こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに
本句集名にもなるこの句は、俳句甲子園や『海藻標本』とは異なる「私」が濃厚に語り出しているように感じた。
声で逢う。
電話で恋人同士が真夏の時を惜しむように語り合う。
作者の「こゑ(声)は消えるのに」と捉えたせつなさの感受性が俳句の器に掬い取られることで永遠となるような感じさえある。
初期の俳句の鮮烈さよりも自己の感受性に向き合う時間がゆっくりと沈澱するように積み重ねられてきたのだろうか。
熱いスープを冷ましながら唇へおそるおそる喉元を通り過ぎるような異国の地での俳句日記が、この句集の此処に確かな何かを佐藤文香さんの生きた証として存在させている。
この句集の物語の私は、源氏物語の紫式部のような誰かの物語ではなく佐藤文香さんの物語なのだ。
湾に凩目を惑星に喩へ合ふ
教はりたる春を聴きたいように聴く
白鳥帰る君のからだの火照るとき
春川を走る試し書きのごとく
帰りみち見ましたね野兎を二度
逢う筈の人と画面に梨食みつ
これらは、佐藤文香俳句の日記のようでもある。
湾に凩(こがらし)を抱きしめるように逢瀬の目は、惑星に喩え合う。
異国での2人の時間を過ごすのは、春を迎えるのを春を教わっているように感受したのかもしれない。「聴きたいように聴く」は、あの『新撰21』に寄せた佐藤文香さんの短文の「たくましく、率直に。いま一番いいと思うことを、言葉を。それも本気で。」を私は、思い出した。
春川を走る。その試し書きの喩えも。
帰り道に見た兎を二度も。
この時期は、コロナ禍の暗雲立ち込める時期でもあり、そうした時期のパソコン画面のリモート上での逢瀬というには、梨をたべながらも。
佐藤文香さんの俳句日記のようでもあり、俳句形式の器に注がれる刻々と移ろう時や輝きを持って私の人生として俳句物語を語られている。
にはとりのはぐれて一羽春の中
もぞもぞの植物にゐて囀れる
港から街までパレードは虹の
雪や地図に友らの生くる国散らばる
俳句としても瑞々しい感性の結晶が顕著にうかがえる。
鶏が群れからはぐれて一羽、春の中を舞う趣。
もぞもぞの植物の中からも囀りが、まるでもぞもぞの植物が鳴くようにも。
港から街までパレードを「虹の」で鮮やかに俳句の「切れ」が効果的だ。
さまざまな国から地図の友との出会いを得ながらまたさまざまな国へと散らばる。
多くの出会いの財産となったのだろう。
この句集の後書きに「ほとんどの日、はやく日本に帰りたかった。」とある。
アメリカ句集のなかで佐藤文香俳句の母語への眼差しは、本句集の収録に散りばめられている写真たちが効果的に俳句にも共振し合っているようだ。
そ のようなアメリカで詠まれた俳句たちの共鳴句を下記に記して置く。
ますますの花盛りの俳人ならではのこれまでもこれからも今を丁寧に噛み締めて俳句語りが成熟していくのを期待して止まない。
懐郷病ここからもここからも海が見え
あらたしきもののすべてにライム絞る
走る栗鼠毎に尾の形その影
言ひ古す和語のいとしく冬の雨
馬面のながくやさしき夏野かな
アメリカの日落ちて夏の明るさよ
色色を咲かせて庭は夏が好き
カリフォルニアらしく乾いて夏落葉
マンゴーの皮肉したたる夜なりけり
作曲家ごとのてのひら夏のピアノ
牛肉を切れば厚さや夏景色
虫のこゑ我がアパートの石造り