haikuを論じる英語の文章に「monoku」という言葉をときおり見かける。「monoku」の「モノ」はギリシャ語由来の「単」を表す接頭辞。「ク」は俳句を表す「句」。英語のhaikuは、三行詩の形態をとることが定着しているが、それに対してmonokuは一行で書かれ、haibun(俳文)やrenku(連句)と並びhaiku文芸のサブジャンルと受け止められている。米国の俳人ジム・ケイシアンの造語らしいが、現象としては七〇年代頃から見られたとか。一行俳句(one-line haiku)などとも呼ばれる。
nightfall the key turns into a blackbird Alan Summers
夜が来る 鍵は黒鳥になる
だが、この話を聞いて日本の俳人の多くが、「え、でも俳句は一行で書くのが普通だよね?」と思うだろう。実際、三行で書かれた英語haikuは日本の俳句に比べて情報量が多くなりがちで、そのことも含めてmonokuはhaikuを俳句に近づける原点回帰とも見えるし、そう受け止めるhaijinもいる。
そしてここで面白い事実がある。
一つめは、monokuのような一行詩は、西洋語にhaikuが伝わる以前から脈々と存在していたらしいこと。monostichとも呼称され、米国のホイットマンやフランスのアポリネールもそんな一行詩を書いたとも言われ、あたかも西洋詩に潜在する俳句的な系譜のようにも思える。
二つめは、多行詩を通常とする西洋詩の歴史において、monokuという特異な形式はいかにも前衛的な雰囲気を濃厚に放つこと。実際、ギンズバーグなど革新的な詩人が手を染めている。日本では、俳句を多行形式にすることが実験だったが、逆に西洋ではhaikuを一行にすることが実験となったのは面白い事実だ。それは極論すれば〝現代詩の実験場〟のような様相を呈して、英語の用法の隙間を突いたような興味深い試行が次々と行われてきた。例えば、あえて全単語を繋げて書いた実験的な句さえある。
Tryingtomakeheadortailofanearthworm Rafal Zabratynski
ミミズをなんとか理解しようとする
monokuの特徴として、あえて文法的に判然としない構造にして一句に複数の意味やイメージを孕ませたり、動詞を入れずに一文を作る効果を狙ったり、ということがよく行われる。
と、それを聞いて、「それ、日本の俳句もよくやってることじゃない?」と日本の俳人は再び思うだろう。そう、monokuはいろんな意味でhaikuを俳句に近づける試みであり、しかもその過程で俳句形式が本質的に持つ実験性・前衛性が顕わになるかのようで、かくして日本の前衛俳句以上に実験的野心に満ちた創作現場となったのが「モノ句」だと言える。
※写真はKate Paulさん提供
(『海原』2023年5月号より転載)