現代俳句協会youtube「いまさら俳句」で筑紫磐井が「三協会統合論って何?」のインタビュを後藤章氏から受けました。正味50分ほどの聞き取りとなっています。次のURLからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=JC7dmw2BvwM
インタビューの際の用意したレジュメから前半部分の概要を紹介しておきます。
後藤:『戦後俳句史 nouveau1945-2023 三協会統合論』が上梓された。本の内容についてはいろいろ聞きたいことはあるが、本日は、何故俳句の協会というモノが存在してきたのかという点に絞って聞いてみたいと思う。
私(筑紫)としては協会や協会史に関心があったのではなく、「戦後俳句史」に興味があった。戦後俳句史は、拙著では<表現運動史>(第1部)と<俳壇史>(第2部)に分けて考えてみた。
➀表現運動:第二芸術とそれに対する反発→社会性俳句→前衛と心象伝統俳句 の一貫した流れを摘出した。
現代俳句協会の初期(分裂以前)は表現運動・表現史と俳壇史は合致していた。表現運動の代表者(兜太、重信等)=協会の幹事=ジャーナリズムである『俳句年鑑』の編集を担った。協会にとって幸福な時代であった。
➁俳壇史:しかしこうした表現運動史は昭和30年後半から40年にかけて中断してしまった(前衛と伝統以降の俳句表現運動は俳壇全体としてほとんど語られることがない)。それからは、俳句史=俳壇史となってしまったのである。俳壇史にあっては、協会史が大きな意味がありその意味で今日お話することもあると思う。
後藤:現代俳句協会は戦後まもなく俳人の生活をよくするために設立されて、著作権原稿料などを規定していた。しかしいつしかこの趣旨が変容していったが、それはいつ頃からでどのような事情によるモノだったか?
現代俳句協会の発端が原稿料問題であることは協会清記ではっきり書かれている。ジャンルは違うが、現代歌人協会(昭和31年設立)も「会員相互の生活を守る」とうたわれており、およそあらゆる文芸分野で終戦直後こうした問題が意識されていたのだろう。
しかし原稿料を稼げる人たちは、人数的にも限界があり、また原稿料を稼げる人たちの協会での活動みも限界があったのではないか。協会の機関誌「俳句芸術」も終刊、協会賞である茅舎賞も中断するようになった。開店休業となってしまったのである。
協会の活動を活発化、拡大するためには大量の会員が必要で、かつ若い世代である戦後派を導入することが必要となり、27年・28年に戦後派作家が大量に入会した。
原始会員(38人)と新参加会員を比較してみると面白い。原始会員は戦前派であり表現傾向から言うと人間探求派と新興俳句、新参加会員は戦後派であり表現傾向から言うと社会性派と前衛派と言える。これにより戦前はと戦後派に分離するようになった。つまりまず世代対立が生まれたのである。しかしだからと言って思想対立にまでは至っていない。
問題は、世代対立はどのジャンルでも、どの業種でもあったが、なぜ現代俳句協会だけは分裂しなければならなかったかということである。分裂以外の選択肢はなかったか?が疑問である。
後藤:現代俳句協会の分裂の真相は大事なことだが、筑紫さんの本では、その分裂は非常に属人的要因でハプニングのように行われたものと感じるがどうか? この辺の事情について筑紫さんの考えを聞きたい。
俳人協会独立の経緯を申し上げたい。ただ、今まで、現俳協の主張は現代俳句協会の中の資料でもっぱら論じられていたようだが、私は、俳人協会の内部資料も使ってみた。
【昭和36年】
➀その始まり
9月26日、第1回現代俳句協会賞選考委員会(選考委員会は都合2回行われた)が開かれた。第1回では、会員から推薦された多くの候補から予選候補を選ぶ作業であり、その結果、石川桂郎(52)がトップを占めた。しかし従来の受賞者が大半が30代であり、もともと現代俳句協会賞の性格が新人賞であったから、議論の結果、僅差で桂郎を協会賞から外す決定をした。
その直後、日付不明であるが、角川源義から当時無所属であった安住敦に俳人協会発足の打診があった。
10月16日、第1回俳人協会発起人大会が開かれ、事務所の場所(角川書店内)、幹事制の採用、会長・顧問人事の決定、俳人協会への呼びかけ等が決定された。つまり、この時点では現代俳句協会賞の決定はされておらず、桂郎が候補から外されたこと(つまり世代対立)を以て俳人協会の発足が決まったのである。
10月31日、第2回選考委員会が開かれ、最終候補者は飴山実・赤尾兜子であったが、採決により兜子に決定した。ただしこの時、幹事長でありかつ選考委員長である草田男は欠席、俳人協会設立を主導した波郷、三鬼、源義らも欠席し、サボタージュした。飴山実の支援者が出席しなかったのであるから、受賞が兜子になったのは当然である。
11月16日、第2回発起人大会、直後、幹事会を開催し、俳人協会清記を決定し、俳人協会賞を桂郎に決定した。
11月16日以降、兜太らに情報が洩れるが、彼らは特に過剰な拒否反応はしていない(兜太日記等)。
言っておくが、三鬼、波郷、源義が当初作成した俳人協会清記原案(その後長く俳人協会の憲法となったが)は、➀伝統を基盤とすること、➁親睦団体とすることがポイントであった。当時現代俳句協会内では、内部団体を結成することは禁止されておらず、すでにいくつかの団体・会合が設置されていた。兜太らが俳人協会の設置に反発しなかったのはこうした理由があったためである。
➁大きな転換
12月4日、草田男が朝日新聞に寄稿し、現代俳句協会の運営は前衛作家で占められ、現代俳句協会賞も彼らの志向で決められた、従って、伝統俳句を守る俳人協会を設置し、敵対独立する旨の宣言をする。(11月16日に決定した俳人協会清記にはこのようなことは何も書かれていないので草田男の独走である)
12月16日 草田男の朝日新聞の記事に対し、現代俳句協会は声明を発表する(俳人協会の本質を草田男の朝日の言葉だけから誤解し過剰反応したと思われる)
12月19日以降、現代俳句協会幹事会は草田男幹事長に不信任(これは当然)。三鬼、源義、登四郎幹事を問責する(これはやりすぎか)。
12月21日俳人協会総会が開かれ、重要な事項が付議されたが、採択されなかった
*脱退か残留か(一律に脱退を求める人もいたが、結局は各人の自由意思で決めればよいとなった)
*現代俳句協会声明に対する反対決議(幹事会預かりとし中止)
*組織拡大(条件付き入会は認めるが、積極的勧誘はしない)
このように、草田男が意図した方向には当初向かっていかなかった。そんな事情もあってか、草田男は俳人協会設立の6か月後に会長を辞任し、秋櫻子が第2代会長に就任した。
(以下省略。詳しくは、youtubeをご覧いただきたい。 質問のみ掲げる)
後藤:世代更新は現代俳句協会の分裂と関係があるのか?その分裂が思想対立の様相を呈してしまったからなのか?それが俳人を縛り始めて、その所属する協会の立場で考えるようになったからなのか?
後藤:そこで問いたい、平成無風と言われてから今日までの状況は俳句界に取って決して良いこととは思えないが、どう感じているか?仮に協会が統合した場合、この状況は解決するか?