「山羊の乳」を読み、まず、渡部有紀子さんはなんと隙のない人だろうと思った。
人日の赤子に手相らしきもの
そもそも赤ちゃんの手相を見ることはできない。赤ちゃんは基本的に手を丸めていることが多く、大人のように手をしっかりと開いてくれることはないからだ。ただ、作者は我が子の手相を確認しようとして、「手相らしきもの」があるような気がした。その措辞からは、生まれたばかりの我が子の行く末をまだ知りたいわけではないという、親の感情も見えてくるようだ。ただ、何より驚くのは「人日」という季語の的確さである。
句集の二句目に置かれたこの句をはじめとして、子どもを句材とした俳句、傍らに子どもの存在を感じる俳句は多く見られる。「子ども俳句は甘くなる」と一般的に言われているが、有紀子さんの俳句は子ども俳句でも冷静さを忘れない。
歩き初む児について来る春の月
喜びを爆発させてしまいそうな状況だが、平然と可笑しなこと言っている。冷静な詠みぶりなのも逆に楽しい。
木苺の花自転車で来る教師
家庭訪問だろうか。自転車に乗る先生の珍しい姿に、子どもは少し嬉しくなる。「木苺の花」から、そんな子どもの幼さを感じさせる。
月蝕を蜜柑二つで説明す
親は両手に蜜柑を持っている。説明する親も、それを聞く子も真剣な顔をしているのだろう。ユーモラスな句だ。
渡り鳥折り紙にある山と谷
山折りと谷折り、そして折り紙を折る子供を前に、親は「渡り鳥」のことを思う。「渡り鳥」の季語の選択に隙がない。
霧深し手をからめてもからめても
手を絡めれば絡めるほど、霧が深くなっていくような。男女の句とも読めるが、この句集においては親子の句として読んだ方がしぜんで、かつベタベタにならないのが良い。
私も子育ての真っ只中だが、子どもと毎日生活していると、子どもを詠もうと思わなくても、どうしても句材が子どもに寄ってしまう。子育ては楽しく嬉しいことばかりではない。辛く大変なこともある。私はいつもその感情をどう季語に乗せるか、どう託すかと思案しているが、有紀子さんの句にはそういった作為が全く見えないのだ。季語がしぜんで、的確で、凛と存在している。
最後に特筆しておきたいのは、最終章の「王の木乃伊」では、それまでの章と雰囲気の異なる句が多く見られたことだ。
滝凍てて大魚の背骨あるごとく
落椿丸ごと朽ちてゆく時間
黄金虫落ち一粒の夜がある
これまでの的確さや冷静さに加えて、大胆さがプラスされたように思う。あとがきに「本句集は概ね編年体で構成した」とあるので、この大胆さがどう変化、飛躍していくのか。第一句集をまとめたばかりの方に掛ける言葉としては大変失礼だとは思うが、読み終えて、まず第二句集が楽しみになる第一句集だと思う。
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今泉礼奈(いまいずみ・れな)
平成六年、愛媛県松山市生まれ。東京都在住。「南風」同人。村上鞆彦、津川絵理子に師事。