[宗田安正追悼]
筑紫磐井 宗田安正氏の業績――龍太と修司の最大の理解者
宗田安正 寺山修司句集の構造――なぜ〈青春俳句〉でなくてはならなかったか
高橋修宏 私神話のトポスーー宗田安正私論(抄)
宗田安正十句撰
編集後記:(2023年5月20日発行) 高橋修宏
今号では、2021年2月に亡くなられた宗田安正氏の追悼小特集を、ささやかながら組んでみた。宗田氏の業績については、今号の筑紫磐井氏が実に的確にまとめておられる。また、小生も、本誌8号の「日々余滴」に記したので、ここでは生前のエピソードを二、三紹介するにとどめることとしたい。
そのひとつは、何かのたびに宗田氏が「表現するって、本来恥しいもんだから」と、呟かれていたことだ。むろん、その言葉は自らの俳句や批評にも向けられていたが、いま思い返すと、それに止まらない彼の表現をめぐる自他への倫理であったのではないか。
ある時期、宗田氏の主宰誌などという話が持ち上がたこともあったようだが、ついに創刊することはなかった。一度だけ、このことに話が及ぶと「何か、恥しくてね」とだけ応えたのも、なにより宗田氏らしい。
また、ある賞で寺山修司の俳句をめぐる論策が発表されたときも、「あれは、僕のパクリだね」と言った霧、黙ってしまわれた。その後、宗田氏から寺山論(今号掲載)のコピーが送られてきたが、それ以上は、お互いに語ることはなかった。
ただ、幼いころの生地、浅草を語るときだけは、いつまでも愉しそうに語られていたことを思い出す。そして最後には、「みんな、空襲で焼けちゃったけどね」と言いながら。どこか、淋しげに、恥しそうに――。