2018年6月22日金曜日

【新連載・黄土眠兎特集】眠兎第1句集『御意』を読みたい8 私の声が言葉の声であること  曾根 毅

比叡山には九十日間、不眠不休で念仏しながら歩き続ける行があるのだそうだ。
この念仏に祈願や感謝の思いはない。
意味のある念仏であれば、三日と唱えつづけられるものではないらしい。六十日を過ぎたころから、己という主体を失い、声を発してはいるものの、無為、無心、無我の沈黙が発する念仏になってくるのだという。
背景や私心によらず無心で対象物に向かうとき、俳句型式は特に普遍性をもってその機能を発揮するのではないかと考えている。

化身なるべし熊野路の初鴉
化身とは、衆生救済のため神仏が形を変えて、この世に現れること。救いを求める願望や希望の視点がある。しかし、ここでは表層的な意味の展開として読むよりも、神々しい何ものかが変化するときの力を感受したい。「化身なるべし」の語気は、上五に収まり切らず、七音に託された溢れるエネルギーとして迫ってくる。八咫烏や熊野に纏わる歴史や街道の奥行をもってそれは具現化され、初鴉の精気として昇華する。

初刷は十のニュースを以って足る

十のニュースがどのような内容なのかがわからない、といったところに捉まってしまうと、この句は味わいにくい。
初刷りにかかわる状況と時間変化、それを拡大して捉える視点。そこに込められた平穏への願いや憧れは、元日の静かな時の流れ、冷たい空気へと集約されてゆく。

子の息を吸ふ窓ガラス冬満月
母性愛といえば、親が持つ子に対する本能的な愛情。それは無償の愛で、子にとっても受け止めて十分幸せなものであると思いたい。しかし、そうだろうか。想いの勝る自己愛ということもあるだろう。窓ガラスを通して見る冬満月に、通じ得ないがそれを見守っていたいという想いが感じられる。しかし月の側から見れば、無償の愛も自己愛も、ほんの些細な角度の違いでしかないのかもしれない。

ものの芽の一つに卓のヒヤシンス

卓上のヒヤシンスが、屋外のものの芽と通じている瑞々しい生命感覚。

ひと驛を歩いて帰る櫻かな
仕事帰りなどを連想するが、桜が咲くころの一日の終わりの気分が、省略のうちに余すところなく表れている。

一日は案外長しつくづくし
ゆふぐれはもの刻む音夏深し
甘え鳴く鹿来てをりぬ膝頭

和歌や歴史のイメージを織り交ぜた、奥行きのある時間空間が静かに広がる。

幸運は静かに来るよ冬菫
枯山の音とは手折る枝のこと

二句とも優しい囁きとして響いてくるが、人に向けられたものでないような、人声でないような感じもある。
冬菫も枯山もどこか限定的でない場所、無との境界線上にあるのではないか。


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