御降や靑竹に汲む京の酒
冒頭の一句である。酒が注がれているのは切ったばかりの青々とした竹。清冽な香りとともに喉に通せば、酒を生んだ水、竹を育んだ土の恩恵を感じる。それは京という土地の恩恵なのだ。長くこの国の都としてあったこの土地が感じさせる神秘は他のそれとは一線を画する。同じ雨であっても正月に降る雨が特別であるように。古来より神と人を結ぶものである酒、そして京という特別な場所。それを詠み込んだこの句が冒頭に置かれることによって読者は涼やかにして不思議な句の数々が待つ世界へと導かれるのである。巧みな舞台設定であり、その後の句の世界にも影響を与えている。
朝寝して鳥のことばが少しわかる
なまはげが説教されてゐたりけり
朝寝と鳥語とは全く関係ない。しかし、この句はなんとなくそんなものかもしれないという気にさせる。
いつもは説教(というより恫喝か)する立場のなまはげ。ここでは逆に説教されている。
どちらもおかしみのある句だが、これらの句のおもしろさがすんなりと入ってくるのは、日本人の信仰が果たしている役割が大きいだろう。なまはげは言わずもがなだが、鳥語を解するといえば民話の「ききみみずきん」を思い出す。ききみみずきんは信心深い若者に観音様が与えたものであり、やはり信仰と関わりがある。
目つむるだけの参拝夏衣
六道詣自転車で乗り付けて
出店なども出る祭。そぞろ歩いているだけでも楽しいものである。その雰囲気を楽しみに赴いていれば参拝は重要視されるものではないが、それでも無視はしない。軽いスタンスの中にも神仏への敬意はちゃんと感じられる。
「乗り付けて」がおかしい六道詣。ちょっと大雑把でも先祖の霊はしっかり迎えに行く。
どちらも特別信心深いわけではないが、さりとて信仰から離れてしまうわけでもない。現代らしさが好ましく詠み込まれている。
かごめかごめ櫻吹雪が人さらふ
十数え鬼となる子や落葉焚
いずれも子どもの遊びが詠まれたものだが、この2句からは尋常ならざるものが迫ってくる。
「かごめかごめ」の曲調は決して明るいものではない。詞も謎めいていて不気味さがある。そこに絶え間なく降ってくる桜花。美しいだけにそれは呪力を帯びる。人をさらっていってしまうほどに。
次の句はかくれんぼか鬼ごっこだろうが、この子がなったのは遊びとしての「鬼」だけなのだろうかと、ふと思ってしまう雰囲気を持っている。焚火はどのような影を映しているのか。
まだ熱き灰の上にも雪降れり
表立って信仰などを掲げているわけではない。「まだ熱き灰」とは割り切ることのできぬ震災への思いも含んでいるであろう。様々なものを白く覆う雪が降っても、それは容易に隠れてしまうものではない。それでも、震災で傷ついたすべてのものが少しでも安らかであってほしいという祈りが感じられる。
信仰は口つく祈草の花
祈りといえば集の中で最も印象深かったこの句が浮かんでくる。普段は自分の信仰などを意識することはない。何かに祈ることも。そんな日本人は多いだろう。しかし、自分や近しい人が危機に見舞われたとき、そしてそこから救われたとき、祈りの言葉が口をつく。それこそ人知を超えた大いなるものへの畏敬の気持ちの表れであり、原初の信仰の姿ではないだろうか。春が来れば数多の草が花を咲かせるように、それは自然なことである。信仰とはそのように私たちの心の深い部分に寄り添い、意識せずとも自然に存在しているものなのかもしれない。
『御意』の魅力はここまで挙げてきたような人知を超えた世界とつながるような句ばかりではない。日常の世界を詠み込んだ佳句も多く収録されている。
啓蟄や叩いてたたむ段ボール
丸洗ひされ猫の子は家猫に
ゆふぐれはもの刻む音夏深し
秋深しギリシャ数字の置時計
これらの日常を詠んだ句と不思議な世界を詠んだ句が混ぜ合わされていることで、2つの世界がパラレルなものではなく、重なり合ったものであることを感じさせる。『御意』は不思議の世界へ我々を誘う力を持つ。そういえば異国の物語で少女が不思議の国に紛れ込んだのも「兎」を追いかけていってのことであった。
本多伸也 鷹会員
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