冬の朝、そのよごれた窓を 小津夜景
人は眠りながら己を律することができない。だからこそ人は必ず眠りから覚め、現実の世界でいそいそと夢を見る。
冬ミルク生まれてみれば灰だった
しかし今、私がこんなにも早く目覚めているのは夢を見るためではなく、単純にこの部屋が寒すぎたからにすぎない。
冬部屋の触れざる声を忘れゆく
私はいつも通り、部屋に忍び込んでいた闇を掃くようにしてカーテンの裾を荒々しく払い、潮風によごれた東方の窓を押しひらいた。
嘔吐もしわれゴミでない何かなら
すると夜のなごりの凍てついた湿気や、それを端からほどく心なしかの温気が、風の乱れるにまかせてかわるがわる部屋を満たしにくる。
ほおひげの風疼くたび添い響く
窓から身を乗り出して冬の海を眺めてみれば、かもめが大きな翼を広げ、あるものは舞い、あるものは稜線の頂きに止まったまま浪もろとも崩れ、海間のそこかしこに散りつつ浮かんでいるのがぼんやりと見てとれた。
そこかしこシーニュかじかむほどシーニュ
風の隙間になだれこみ、まためくれあがる鳥たちの聲は、両の耳を聾し、また揺すり起こし、連なるはずの海の印象を断片に変え、つぎつぎと私の目へ放り出す。
マフラーとぶそれ自体なる死を知らず
こんな時、いつも私は次の一聲でそれが完璧に崩れ去ることを強く欲しながら、その断片を記憶に積み重ねて遊ぶのだ。そっと息を止めて。
酸欠や煮こごりほどの記憶ある
そこからの長い長いつかのま。そのうちに疲れを覚えはじめた私は、自然よりも近しい何かを求める仕草で、今度は窓のまわりへ視線を返してゆく。
かがやきは塩のごとしよ冬の他者
そこでは落ちそこねた枯葉をごっそりまとう水楢の幼な木や齢をかさねた白樺の、氷の粒のつらなる枝を知らない野鳥がつまぐっている。
ずぶぬれの枯葉のなかの微熱かな
そしてその白樺に寄せられた幌つきの軽トラックの陰にはたいていその人がいる。アノラックで着膨れしたその人は物置前の雪を掻きけずったり、車のエンジンを吹かしながらフロントガラスの氷をはがしたり(この時点で私は、心なしかの温気が人工の熱だったことをいつもようやく理解する)、凍った漬物樽の中を確認していたり、幌に漁の道具を積んでいたりと、常に何かしらの仕事に勤しんでいるのだ。
「お早いですね」
上方の窓に私を見つけると、その人は決まってそう挨拶する。
「おはようございます。また漁ですか」
「漁? おおげさね。あなたも行きますか」
そう誘われて、私は服を着込む。もっとも誘われなければそれまでであり、むしろそういった朝の方がずっと多かった。せっかく毎朝、こうして目覚めているのだが。
ゆくえしれずのこのわたがうつくしい
【略歴】
- 小津夜景(おづ・やけい)
1973生れ。無所属。
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