小川双々子「麦埃浮きかたまるや殘る民」
小川双々子(1922〈大11〉9.13~2006〈平18〉.1.17)の自信作5句は以下通り。
麦埃浮きかたまるや殘る民 「地表」1989(平成元)年6月
炭俵照らしてくらきところなる 〃 ‘90(平成2)年1月
冬の個人やライターの火を点し 〃 〃
亡郷やてのひらを突く麦の禾 〃 2月
麦飯やここに空気が一つありて 〃 4月
一句鑑賞者は、谷口慎也。その一文には「定型に対する非定型も、体制に対する反体制も、時間と共に定型化し、体制化する。この句を私が何処か古臭く思うのもその辺にあるのだろう。/換言すれば、双々子の「殘る民」に対する詩的思惟性がすでに概略化し古びているとも云えようか。作品におけるエネルギーは、作者の詩的思惟性が絶えず流動していくときにしか生まれないのであろう。書き続けることの困難さでもあるのだろう。多分、俳句の『場』においてさえ、座布団は用意されていないと考えた方が正しいのだ」。23年前の鑑賞文であり、若々しい谷口慎也の俳句の先輩に対する礼儀ある手厳しい評である(もちろん、現在も谷口慎也は鋭利だが・・)。冒頭には、双々子の魅力について「双々子と云えば句集『くろはらいそ』。その悪意に満ちた光りこそ我々を魅了してやまぬものであった。悪意の闇の深さが、一貫した彼の詩質であろう。闇の深さとは生のエネルギーの強さのことに他ならない」と述べている。それが、最終段の「作品のエネルギー」以下の評価に連動しているのだ。数ヶ月前のことだと思うが、山崎百花が「麻」(主宰・嶋田麻紀)にクリスチャンだった小川双々子の作品の一部始終を聖書の言葉を引用して、解読、鑑賞している実に緻密な長文の論考を読んだが、その折、双々子は幸せな俳人だ、と少し羨ましくも思った。ともあれ、双々子没後の全句集が出るという噂を聞いたものの、いまだに出版されていないのは実にさびしい。
冒頭に掲出されたわずか5句をみるかぎりでも、その特異な作風と、詩的思惟は現在でもなお古びることないものである。
わが生ひ立ちのくらきところに寒卵 『幹幹の聲』
の序文で山口誓子は、上記の句を秀作として上げ、「曽て同じ道を歩いた小川双々子の今後を私は他のどの作家よりも注視しているのである」と述べた。
思えば双々子生前、平成2年に刊行された『小川双々子全句集』出版記念会には、攝津幸彦ともども、名古屋で開かれた祝賀会に招かれたことがよみがえる。あれから、もう20年以上が経つのだ。
その全句集の附記に双々子は次のように記している。
「ふと手にした井泉水句集(新潮文庫)の『ひぐらし鳴くかまくらをかまくらに移り』の一句を記憶した少年時代から、いま手許にある書きかけの未完の一句に到るまで一切が途中である。しかし、これより一事を為すの自負などあろう筈もない。〈全句集〉の企画にも心重く、いたずらに月日が過ぎた。(中略)/折りしも〈昭和〉が終った。かえりみて、われわれの世代の心身に濃く沁み込んだ時間でもある。たどたどしいわが俳句作品はわが昭和でもある。それをどうする」。
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