2026年2月13日金曜日

【新連載】 新現代評論研究(第19回)各論:後藤よしみ、佐藤りえ、村山恭子

★ー3「高柳重信における皇国史観と象徴主義の精神史」―戦前の影響と戦後の変容をめぐって―後藤よしみ


第六章 宿痾と戦争体験による思想の重層化

 高柳重信の精神史を語る上で、肺結核という宿痾の存在は欠かせない。1942年に発症したこの病は、当時「死を招く青年病」とも呼ばれ、重信の人生観と創作姿勢に深い影響を与えた。彼は、石川啄木の享年までを自らの命の目安とし、短距離走のように生を急ぎながら、次第に霊化していく⁽¹⁾。この病によって徴兵検査は丁種不合格となり、戦場に立てない若者として「非国民」とされる劣等感を抱くことになる。

 重信は、戦時下において「銃後の冬蝿」として社会から遮断された存在となり、弁護士になる夢も断念せざるを得なかった。友人たちが次々と徴兵されていく中で、彼は孤独と焦燥の中に身を置き、精神的な拠り所を楠木正成や後南朝の思想に求めた。これらは、皇国史観の中でも特に忠義と非業の死を美学とする精神であり、重信の内面に深く根を張っていた。

 一方で、彼の心の片隅には、フランス象徴主義の詩的世界が静かに息づいていた。リラダンの詩精神は、重信にとって逃避ではなく、精神の自由と創造性を与える領域であった。皇国精神が肉体化し、行動へと向かうのに対し、象徴主義は言葉によって内面を構築し、外界に対峙する力を与えた。

 この二つの思想は、重信の内面で併存し、互いに釣り合いを保ちながら詩的表現へと昇華されていく。彼は、詩歌に耽溺することで正気を保ち、療養生活の中で観念的・耽美的な世界に接近していく。死神を見つめる時間は、作家的準備期間となり、敗戦後の創作活動におけるアドバンテージとなった⁽²⁾。

 このような精神的重層性は、重信の作品においても顕著に表れる。皇国史観に基づく忠義と、象徴主義に基づく詩的宇宙が交錯することで、彼の俳句は単なる形式ではなく、思想の器として機能するようになる。病と死、戦争と孤独、そして詩への没入が、重信の思想を鍛え、表現を深化させていったのである。


脚注

⁽¹⁾ 色川大吉『ある昭和史』中公文庫、1975年。

⁽²⁾ 高柳重信「『蕗子』の周辺」『高柳重信全集Ⅲ』立風書房、1985年。


★ー5:清水径子の句 / 佐藤りえ

 檻の狐の故郷の天にする落葉  「鏡」昭和四十年以前


 引き続き『鶸』より。初出は「氷海」昭和38年6月号の特別作品「悪漢」、表記は同じ。特別作品は同人の自主的な投稿とのことで、翌月以降に他の同人から批評がつく。前回紹介した横山衣子の評は「悪漢」の作品群へのものだったが、冒頭に据えられたこの作品には言及がなかった。

 連続する格助詞「の」は体言同士を重ねてつないでいく場合、よりその細部や中心へとクローズアップしていく効果を持つことがある。また、順々に条件を付け加えていくことで、最後の体言に特別な意味を持たせ、重要さを強調することもできる。この作品の場合は、いずれの用い方とも異なり、「の」を繰り返していくことで視点をより遠くへ誘う効果が見られる。

 動物園なのか、檻の中の狐に目を留める。ほんらいここにいるべきものではない、遠くから来た狐だ。その遠い故郷の山にも、折しも木々が葉を落としている。

 径子はほぼ一貫して現代語を使用している。切れ字を用いることもごく少ない。そうすれば句の姿じたいはそれっぽくなる、「檻の狐の故郷の天に落葉かな」とは、まずならない。「落葉する」ともせず、「天にする落葉」、落葉という行為、状態、葉が落ちる情景が最後に残る。

 たとえば虚子の「蛍火の今宵の闇の美しき」は小さな蛍火から視線がスタートし、周囲の「今宵の闇」へと広がっていく。美しい、あえかな蛍火によって、今夜の闇の美しさがわかる。

 現状認識という意味では、虚子の句と径子の句はいずれも「いま」を描いている。虚子が直視した眼前の美をとらまえているのに対して、径子は眼前の獣を通して、遠くを見ている。「狐の故郷」と、狐を一人前に扱うことがファンタジックに見える嫌いもありそうながら、それを食い止めているのが「檻」を強調した上七と、下句「天にする落葉」だった。

 落葉は落ちてから認識される嫌いがある。モミジ、カエデ、銀杏など、色鮮やかな落葉は具体名を持ち(紅葉且つ散る、とか)降る様も喜ばれるが、それ以外の広葉樹はおおむね地味な、くすんだ色をしている。「落葉且つ散る」とは言わない。地味な葉が散る様は絵には数えられない。

 紅葉シーズンが終わった遠山は灰褐色となり、堅牢な常緑樹と、裸木の枝に守られて冬を迎える。檻の狐のもといた山にも、乾いた風が吹き、くすんだ色の葉が幾重にも降り積もっていることだろう。

 たたみかける調子で、狐はうんと遠くに連れてこられているのだろう、と感じる。当然、狐にも故郷はある。動物園なら、世界中から集められた動物がいるのだ。屋根のある獣舎にいたら、落葉を浴びることもない。

 なにとはなし「運命」という言葉が浮かぶ。お前もここに連れてこられるなんて、思ってもいなかったでしょう。別段「運命を呪う」ということではなく、こんな遠くまで来るなんてね、とやや共感めいた想像力を働かせたのではないか。落葉はここにもしていて、あちらにもしている。季語がここ(・・)そこ(・・)をつないでいる。このような季語の用い方が私は好きだ。径子もそうだったのではないか、と思っている。


★―7:藤木清子を読む9 / 村山 恭子

9 昭和11年 ④


  怨しき思ひ出  父と姉を同じ日に失ひけるその一周忌に

網膜にそのおそろしき光景(ありさま)を       京大俳句4月

 父を姉を同じ日に失くした情景が、まざまざと甦ります。その有り様を「網膜」「光景」と重ねることで当時の状況が鮮明に立ち上がります。「そのおそろしき」様子は、一周忌を迎える今も心に残り続け、目を閉じればまなうらに浮かび、心を震わせます。

    季語=無季


涙涸れ巨き静寂の厭しゐき        同

 父と姉を失い、涙が涸れるほど泣きはらしました。喪失感が「巨き」により拡大し、心情とその空間を「静寂」の無が埋めています。

  季語=無季


雪降れりつゞるうれひにたゞふれり    同

雪が降っています。肉親を亡くした悲しみをむなしく綴っています。「たゞ」がこの句の眼目です。「降れり」「ふれり」のリフレインが一層の寂しさ、虚しさを増しています。

  季語=雪(冬)


港都の穢しりぞけ梅は黄に澄める     同

 「港都の穢」とは大きな軍港の不気味さを指しています。軍艦や煙の黒が浮かび上がり、梅の黄色と対比します。穢を祓う力が神聖な梅にはあり、瑞々しく咲き誇っています。

  季語=梅(春)


  未亡人を詠へる            旗艦17号・5月

亡夫(つま)の額に日ざしがぬくゝとけてゐる

 亡くなった夫の額に日差しが当たっています。その日差しはぬくく溶けて、亡くなった夫へ吸い込まれているようです。それを眺めている妻は生きています。亡夫にも生きていた時のぬくもりが戻ってきて欲しいと願っています。

  季語=無季


たくましき舸子銀嶺に並み佇てり     同

たくましい船子。その姿は雪が振り積もって銀色に輝く山の嶺と同様に、立派に佇んで

います。銀嶺の輝き、雪山の清らかな風を感じます。

  季語=無季


  放浪の弟に寄す

放浪に変らぬ性を吾はおそる       同

 放浪している弟は何をして、何を考えているのでしょう。子供の頃からみてきた弟の「性」。気質や宿命を深く考えています。弟を心配しながら、「性」に翻弄される弟の姿が暗示されます。前号⑧〈飢えつゝも知識の都市を離れられず〉と二句立てです。

  季語=無季