2026年1月16日金曜日

英国Haiku便り[in Japan](58)  小野裕三

ワードレス・ポエム

 これまでの連載でも幾度か触れたが、昨年末にhaikuをテーマとしたロンドンでの現代アート展に参加した。その展覧会にアート作品を出展した現代アート作家たちに、haikuについての考えを質問して僕がエッセイを書く、という企画を国際俳句協会のウェブサイトで行った(「現代アート作家たちが見たhaiku」)。詳細はそちらに譲るが、驚いたのは、英国在住の現代アート作家というもっとも俳句的環境から遠そうな人たちが、的確に俳句の本質を捉えていたことだった。

 例えば、今回出展したリサ・ミルロイさんは俳句の特質として次の点を列挙する。「感情と概念的な複雑さに結びつく美しい形の経済性 、強力な視覚的イメージ 、対立する力のコントラスト、驚きの要素を備えた遊び心の質、物質的なものと非物質的なものとの相互作用 、タッチや熟練の軽さ、物質世界・自然・日常的な物への集中した観察、スペース・タイミング・リズム・流れ 、言われていないことを通して言われたこと」。果たして日本の俳人がここまで挙げうるかとすら思うくらい、どれも本質的な指摘だ。

 haikuへの彼女らの理解を後押しした背景として、英語を介することで日本語や日本文化のしがらみなしに俳句を見られる、外観の表層的シンプルさという意味で現代アートと俳句は似ている、などの点が思いつく。だが、彼女らが言語芸術ではなく視覚芸術を専門にするという、まさにその点に彼女らが俳句を正確に理解できる鍵があるとしたらどうか。

 例えば、英語の世界ではhaikuを「ワードレス・ポエム(wordless poem)」つまり「言葉のない詩」と呼ぶことがある。語義矛盾のような言い方だが、実はこの矛盾こそが俳句そのものだとも思う。言語で表せない何かを表そうとすることが芸術や詩の根本だとするなら(そして視覚芸術を専門とする現代アート作家は、この課題に日々向き合っているはずだ)、俳句はその矛盾をその短さにおいて明確に引き受けた。つまり、ワードレス・ポエムとも呼ばれうる、ギリギリの矛盾した輝きこそが俳句だとしたら。

 例えば、出展者の一人、オリビア・バックスさんは「編集は最も難しい仕事のひとつなので、俳句での制約はむしろそれから自由にしてくれます」と回答した。俳句の短さは、編集作業という執筆全般にまつわる煩雑な行為を回避する(もちろん推敲は別だ)。結果として、言葉をナマの質感のままぽんと提示するような感覚をもたらし、それは絵画や彫刻という視覚芸術のふるまいとも似通う。

 そんなことを思えば、俳句は言語芸術よりもどこか視覚芸術に近い側面を持つのかも知れない。少なくとも、現代アートとhaikuという、一見縁遠そうな関係から俳人たちが学べることは多そうだ。

※写真はKate Paulさん提供

 (『海原』2024年10月号より転載)