2026年1月16日金曜日

[新春論考]1954年の寺山修司(前編)  佐藤りえ

 必要があって俳誌「氷海」を創刊号から読み進めていたところ、主宰選の選句欄「氷海集」に寺山修司の名前を見つけた。


 わが声もまじりて卒業歌は高し  寺山修司

 もしジャズが止めば凩ばかりの夜

 冬浪がつくりし岩の貌を踏む

 老木を打ちしひゞきを杖に受く

 雪嶺の主峰が見えずむつみあふ (「氷海」17号/昭和27年5月)


 秋元不死男主宰の「氷海」は「天狼」東京支部報から出発した「天狼」の僚誌であり、この時創刊4年目、経済的な事情などから前年なかばより誌面はガリ版刷りとなっていた。

 二句目、「もしジャズが止めば」など、そうと知らされなければ昭和20年代の少年の句とは思いがたい、モダンな趣がある。「冬浪がつくりし」についても〈岩の貌〉を〈踏む〉と収めるのは、少年の力量としては並外れているのではないか。当時の「氷海」は山口誓子提唱の「根源俳句」について手探りの段階にあり、作品内容は時代背景を反映した貧困、戦後の困難にあえぐ内容、また社会性俳句の一歩手前、工業化、機械文明への批判的なものなど、誤解を恐れずいえば「大人の地声」がひびきあうような場所だった。寺山と並んで友人の京武久美の名前もある。選評で不死男は彼らについて「俳句のうまさは、まさに驚くばかり」「末おそろしき若者というべきである」と述べている。ときに寺山修司、京武久美ともに16歳。

 青森高校の同級生同士は「山彦俳句会」を立ち上げ、機関誌「青い森」を発行、地元の俳句会「暖鳥」句会に出席、俳誌「寂光」に投句、競って読売新聞の「よみうり文芸欄」(秋元不死男が選者をつとめた)に投稿…と俳句漬けの日々を送っていた。のちの述懐によると、京武が「暖鳥」誌に掲載されたのを見て鼓舞された寺山が俳句に熱中し、できた句を夜も昼もわかず見せに来たという。


「氷海集」は不死男の単独選句欄で、最大5,6句から1句まで掲載される。巻頭はもちろん栄誉である。寺山は次の掲載回、「氷海」18号(昭和27年6月)でいきなり巻頭を取る。


 夜間飛行回廊の果てに女立つ

 ジャズさむく捨てし吸殻地で湿る

 花電車人と触れいて和し易し

 野火うつる鏡のなかに抱きおこす

 校舎ふり向く松蟬の松匂ふなか

 母と別れしあとも祭の笛通る

 籐椅子や女体が海の絵をふさぐ

 べつの蟬鳴きつぎ母の嘘小さし(「氷海」18号/昭和27年6月)


「氷海集」はこの当時まだ投句者がわりあい少ない(そもそもガリ版刷り時代の「氷海」はページが少なく遅刊も続き、昭和27年に刊行されたのは8冊のみだった)。後年人数増に従い、より初心者向けの投句欄が新設されるなどした。この時の寺山の掲載句8句は巻頭のなかでも最大規模のものだったのではないだろうか。選後雑感で不死男は特に「母と別れしあとも祭の笛通る」「べつの蟬鳴きつぎ母の嘘小さし」を「青年らしい純情と哀愁があって好もしい」と評した。「ジャズさむく」「籐椅子や」は大人の世界の話を無理にしている感もある。「夜間飛行」「野火うつる」はイメージ先行で句意が曖昧である。しかし言葉の耀き、一句を整える手腕は見事である。

 この頃寺山は前述した地元の俳誌、新聞のほかに受験雑誌「学燈」「蛍雪時代」、俳誌「七曜」「天狼」「寒雷」「萬緑」に投句していた。創刊されたばかりの西東三鬼「断崖」にも投句している。受験雑誌はともかく、俳誌の投句欄で巻頭を取ったのはこれが初めてではないだろうか(「七曜」「断崖」は未見、後日確認したい)。これについて寺山はどう思ったか。


 浴衣着てゆえなく母に信ぜられ

 虹に向く砲を砲口より覗く

 木の実ふるわが名谺に呼ばすとき

 赤とんぼ孤児は破船に寝てしまふ

 木の実おとせし粗きひゞきの杖つかむ(「氷海」20号/昭和27年11月)


 19号には掲載なく、20号で寺山はふたたび「氷海集」巻頭掲載となった。続けて巻頭を取る者は他にもいる、初めてのことではない。しかし掲載開始から三度目で二度の巻頭、はどうだろうか。きわめて稀なことではないか。この号の選後雑感で不死男は個個の作品評を書かず、「感想」を記した。

じぶんを生したいといふことは、じぶんの個性を発揮したいといふことになる。個性といへばそれは生きてゐる一個の人間の、いろいろな精神的機能であるが、これを文学的な表現でいへば、人間の息づかいのことだ。(中略)現在は永遠にとび去る。この「永遠の今」といふ感じを知ることが、俳句をつくることである。(中略)じぶんとのめぐりあひ、それを尊しとおもふ、そのじぶんを大切に、いとほしく感じたい、さういふおもひがわたしに俳句をつくらせるのである。だから、わたしの一句一句は、わたしの生命と生活の記録である。といふ風におもつてゐるのである(後略)。(「氷海」20号・氷海集「選後雑感」)

「氷海集」の投句者たちは学生とは限らないが、同人よりは作句経験の少ない人々であることは違いないだろう。不死男はそうした人々に向かって、嚙み砕いた書き方ながら「善く生きよ」「生活実感を大事にせよ」と言った。今回の寺山の作品も、完成度という意味では他の投稿の追随を許さないと思う。しかしここに何かがないことを不死男は感じ取ったのだろう。

 不死男が選後雑感で個個の作品評を書かないことは時折あるが、往々にしてそれは作品が低調だった場合に多い。好調な作品(でなければ、5句も選ばれはしないはずだ)を迎えつつ、その「よさ」ではなく、精神を説くことを、不死男は選んだ。

 この後寺山が「氷海集」で巻頭を取ることは二度となかった。以後、投句自体は昭和29年まで続いた。昭和28年は発行された9冊(合併号があるなどしたためこれが年間に発行された全冊だった)すべての「氷海集」に掲載され、最高位は11月号の二位、1月号と4月号で二度、三位に入っている。昭和29年の10月号には成績優秀者として「新人集」に迎えられ、「小飛行」15句が掲載された。この「新人集」を最後に、寺山は「氷海」から姿を消した。翌月、寺山は「短歌研究」第二回五十首応募作品「チェホフ祭」で特選を受賞する。


 麦の芽に日あたるごとき父が欲し

 花売車どこへ押せども母貧し

 母は息もて竈火創るチエホフ忌

 いまは床屋となりたる友の落葉の詩(「小飛行」「氷海」昭和29年10月号)


 そもそも、寺山はなぜここまで手広く投句を繰り広げたのだろうか。投句先の傾向はどう見ても一傾向とは思えない。数打ちゃ当たる方式のつもりだったのだろうか。現在はどうなっているのかわからないが、当時は特に、そんなめっぽう打ちでどこかにひっかかる、というやり方が通用するとは思えない。

 さらに言えば、なぜ「氷海」に投稿したのだろうか。むろん、新聞選者であり、著名な「天狼」創刊同人である秋元不死男めがけて――ということはあるかもしれない。「牧羊神」創刊号には「「青高俳句会」が不死男先生を囲んで若い情熱をあたゝめ」という記述がある(「牧羊神」創刊号編集後記)。「青高俳句会」の機関誌「青い森」の顧問に不死男を招いたことから、直接の会合を持ったのかもしれない。新興俳句にも興味があったというから、不死男の「街」「瘤」を読んで惹かれたのかもしれない。不死男にも理知的な句、イメージの強い句、乱調な句もある。あることにはあるが、前述した不死男の精神論的な観点から、寺山の感覚的な俳句を高く買うのぞみは少ないように思う。第一、不死男の師・誓子の「天狼」にも投句しているのだ。結社なり主宰なりが、自作と合うー合わないという基軸が見えない。それ自体は、特に作句をはじめて間もない頃なら、そういうものかもしれない、とも思う。自分の傾向というものが見えるには多少の時間がかかる。いや、そもそも、「自分の句を誰ならより評価してくれるか」という考え方を、寺山は持っていなかったのかもしれない。

 そもそも(何回目だろう。しかし、知れば知るほどそう言いたくなる)、寺山の俳句観とはどのようなものだったのか。「氷海」等結社への投句をしながら、並行して昭和29年(1954年)、俳誌「牧羊神」を創刊する。参加者たちは畏友・京武のほか、全国の、寺山が目を付けた各誌への若い投稿者たちだ。住所のわかるものへは直接、わからないものへは学校宛てに手紙を送り、参加を促した。寺山が打ち立てたメルクマールは若さを武器とした「俳句の革新」である。「牧羊神」には作品のほか、毎号のように寺山の筆によるアジテート的な文章が載った。

僕らの俳句革命運動は、本誌三号あたりからPAN宣言として、僕や京武君などが交代で毎号の巻頭にその理論を体系づけてゆくつもりであるが、古い言い方を借りれば「論より実行」。諸君の実作がペンの余滴の何行にも勝るようになることを信じて疑はない。(「牧羊神」創刊号編集後記)

僕たちも考えよう。こゝに創刊したPANは現代俳句を革新的な文学とするため、そして僕たちの「生存のしるし」を歴史に記し、多くの人々に「幸」の本体を教えるための「笛」である。(中略)僕たちはこのPANの方向を仮に憧憬主義と名づけたい。(「牧羊神」第二号「PAN宣言」)

僕等最後の旗手、僕らは僕らだけに許された俳句の可能性を凡ゆる角度から追求せねばならない。ロマン・ロランは「今有難いのは明日がある事だ」と言ったが、僕らにとっても是程はっきりとした「明日」という日は又とあるまい。(「牧羊神」第五号「PAN宣言――最後の旗手」)

 表現は微妙に変化しつつ、革命を呼びかける声高な宣言文が並ぶが、主要な内容にはあまり変化が見られない。具体的な指針、柱となる理念、作品といったものは見えてこない。第六号において、かろうじてその観念のフックとなるべきものが示される。

 ところで見たことを書く俳句は決して私小説ではないし、石田波郷氏によって固定づけられた俳句の「私性」的な宿命に追いつめられたものでもない――と小さな断定を私が胸の中へ火のように育みはじめたのはつい最近のことである。見たことは在ったことと決して同じではない、ということは考えてみるとひどく私らの力となりそうな気がしたからである。

「俳句的人生」という一見ひどく前時代風のことを私が新世代の俳句をする青年たちへ呼びかけようとするのは、つまり人生を俳句に接近させることにほかならないのだがその場合、俳句は無論既成の俳句ではなくて私ら新世代によって革命化された新理想詩を指しているのである。(中略)私らは在ったことではなく、見たことを俳句とし、つねにそれを私ら人生の「前」avantに置こうとたくらんだ訳である。つまり私小説は実生活のあとにあるが、私らの俳句は実生活の前にあろうという訳で、私らが美しい日々を送るために俳句は美しかるべきであろうし、尚思索的でもあるべきだろう。

 見る――なるほどこれは在ったものに触れる以上に精神の純粋さを強要し、私らの「生きる」ことへの方法論を提示してくるにちがいない。したがって私らは西東三鬼氏――左様あれほど尊敬していた――を蹴とばさねばならなくなった。なぜなら三鬼氏が内臓しているハイデッガーの、そしてあるいはヤスパースの実存主義には「生」をすでに有限とみなしたニヒリズムと絶望が厳然として存在しているからでもあるし、「生」へあまりにも中年的な興味をもちすぎているからである。(「牧羊神」第六号「光への意志」)

見たことは在ったことと決して同じではない」「在ったことではなく見たことを俳句とする」「私らの俳句は実生活の前にあろう」。ここで寺山は、さきに引いた秋元不死男の「わたしの一句一句は、わたしの生命と生活の記録である」という言葉に相対する考えを述べている。波郷の説「俳句一句は不完全であるがゆえに、その作者そのもの、また他の作品を知ることにより一句を理解していく」にも異を唱えている。依然、最大の武器は「若さ」である。若さによって、経験ではなく、記録でもなく、「見たことを俳句にする」。虚構と呼ばれる脚色、いわゆる「取り合わせ」ともまた別の手段としてのコラージュ、寺山としてはオマージュのつもりなのかもしれないが、なかなかそのようには写りづらい引用。寺山自身の実作をものがたる文章とてしては理解できるものである。


「牧羊神」同人たちにとっては、これらの文章はどのように映ったのであろうか。寺山は俳句革新を、と呼びかけ扇動するが、その方向性、共有すべき目標には具体性がない。最も実現可能と考えられる目標は「牧羊神」を育て、俳壇に無視できぬ存在として在り続けることであろうが、彼らは勇み足に過ぎた。ここまでの「牧羊神」からの引用文は、わずか半年間に書かれたものである。昭和29年2月の創刊号をかわきりに、第三号までは毎月発行、遅れた第四号と第五号は7月から8月に相次いで発行された。この間寺山は大学に進学、他の同人も進学や就職で郷里を離れるものもあった。俳句革新運動のため、夢中で俳句を作るのは欠かせぬ活動であろうけれど、手がけた雑誌を月刊とするのは並大抵のことではない。創刊からほどなく会費の値上げ、同人と会員の別を作るが、同人に留まって欲しいという連絡、新聞の公募に応募して賞金を活動費として充てられたい―などというお願い、さまざまな呼びかけが「牧羊神」内で行き交う。

 同人達の中にはそれぞれ「七曜」「群蜂」など結社に所属するものもあり、既成の俳句を打倒するという目的に、どのように折り合いをつけるか、といった内心の問題も発生するのではないだろうか。「既成の俳句」にはそれぞれが所属する結社の長の作も含まれるのである。


 駄目押しで追加すると、寺山はこの時期さらに詩誌「魚類の薔薇」創刊に参加している。「十代のモダニストを糾合せんとする意図」の下に発足した「魚類の薔薇」詩人会には京武久美、近藤昭一、金子黎子などのちの「牧羊神」メンバーも参加していた。

 詩と俳句というジャンルは違えど、全国から同志を募り雑誌を立ち上げるというアイデアは「魚類の薔薇」に始まり、「牧羊神」に発展した。

「魚類の薔薇」は情報が乏しく詳細に不明点が多いが、昭和28年から29年にかけての4号まで参加、詩作品を寄せ、鼎談にも参加している(*『寺山修司 ぼくの青春ノオト』久慈きみ代/論創社)。29年には北園克衛のVOUに参加、「vou」42号に「航海日誌」「menu・幸福の」「航海」詩三篇が掲載されている(「vou」の詩誌批評欄に「魚類の薔薇」への言及もある)。同年Vouクラブに属する安藤一男の詩誌「ガラスの手袋」に参加、詩を寄せている(現物未確認)。30年の「文章倶楽部」詩欄(鮎川信夫・谷川俊太郎選)では「誕生」が入選作として掲載された。

 短歌だって書いていた。中学時代の寺山はどちらかといえば短歌、詩、童話を主に書いていた。昭和27年(1952年)の歌誌「日本短歌」5月号には読者作品欄の推薦作品として以下二首が掲載されている。

 寒卵を卓にこつこつ打つときに透明の器に冬日たまれる
 古びたる碗と枯れたる花ありて父の墓標はわが高さなる

話がこんがらがってくるので、年表にまとめてみる。


 詩の活動を青字、短歌の活動を赤字で示した。

 まさに全面展開、絨毯爆撃といおうか、昭和27年から30年ごろにかけての寺山は「常軌を逸した文芸活動」(『寺山修司 ぼくの青春ノオト』帯文)を繰り広げていた。

 ものの文章に目を通すと、寺山は「牧羊神」を足がかりに俳壇に打って出ようとしたのだ、というが、それは本当にそうなのだろうか。矢継ぎ早に巻を重ねた「牧羊神」は寺山の情熱とは裏腹に、作品の革新が目立って進んでいるようには見えない。

 野心のためというには、「牧羊神」は結果的に素朴な集まりであった。一年を持ちこたえることなく刊行は滞り、さまざまな企画がたてられつつ、躓き、頓挫した。そのかたわらで、寺山は幾人かの同人に中城ふみ子の「乳房喪失」を見せて感想をたずねるなどしている。同時期に詩や短歌もさかんに作っていた。

 いったい寺山はどこへ行こうとしていたのか。あるいは、どこへ行こうというのでなく、何ができるかを模索していたのか。(つづく)