2024年11月15日金曜日

■現代俳句協会評論教室・フォローアップ研究会 4 筑紫磐井

【評論執筆例(初期能村登四郎作品について):筑紫磐井】


4.能村登四郎の最初期句

 既に登四郎の代表作となっている「ぬばたま」の句(23.3)、やがて登四郎の教師俳句への転換となった「長靴に腰埋め」の句(26.4)というぬばたま伝説の疑問は述べてきたので、登四郎の実像をこれから眺めて見たい。:

      *

 能村登四郎の俳句が馬酔木に初めて登場するのは、昭和14年2月号である。【注1】


芦焚けば焔さかんとなりて寂し


 それ以前は短歌を詠んでいたからどこか主情的な雰囲気が漂うが、描写はしっかりとしている。以後も、こうした着実な写実的な句が続いてゆく。これが登四郎の初期作品のスタイルであった。


枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


 「するどくて」「ふたつとなりぬ」「いつも」「いつの間にみてゐし」等のやや主観をにじませる語、「朝は子とゐし」→「人のゐる」、「ひとりゐる(蘆刈)」→「(鳰も)ひとつゐる」の時間的推移を描写する語法は短歌的であると言えよう。

 戦後になってからもこのスタイルは変わらない。


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨

潮くみてあす初漁の船きよむ(23・2➁)

雪天の西うす青し雪はれむ(23・3➀)


 ここで視点を変えて、能村登四郎のおかれていた環境を見てみたい。当時の馬酔木の成績を巻頭回数で見てみると次のとおりである。


22年:4回=山田文男,2回=静良夜,1回=藤田湘子、澤聡、静晴虹、大谷秋葉子、尾崎光訪、持田施花

23年:3回=藤田,能村登四郎,2回=林翔、水谷晴光,1回=竹中九十九樹、澤田緑生

24年:2回=藤田、林、馬場移公子、野川秋汀,1回=能村、殿村菟絲子、水谷、持田、

(藤田,能村,林以外の作家の略歴を現在分かる範囲で補足すれば、山田文男は山岳俳句の雄。静良夜は後の高野山法印前官大僧正で僧房俳句に闌け、澤聡は北海道在住で北炭勤務、秋櫻子編『新編歳時記』冬の部を担当。水谷晴光、澤田緑生は名古屋市在住で、登四郎・湘と同時に同人昇格。澤田は、後「鯱」主宰。馬場移公子は秩父在住の戦争未亡人でその後俳人協会賞受賞、野川秋汀は療養のため福岡に帰郷、後「野火」同人会長となった。殿村菟絲子は短歌から馬酔木に入り、女性俳句懇話会を結成、機関誌「女性俳句」を創刊。後俳人協会賞受賞。)


 これら巻頭作家の中でその後も活躍した人と巻頭作品を、23年を中心に掲げてみよう。


22年 2月 忽然と雪嶺うかぶ海のうへ      澤聡

    4月 月落ちて川瀬に小田の雪あかり    藤田湘子

23年 1月 揚舟をかくさんばかり干大根     藤田湘子

    2月 日を仰ぐ咳やつれせし面輪かも    竹中九十九樹

    3月 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌     能村登四郎

    4月 さふらんに沖かけて降る雪しばし   水谷晴光

    5月 花烏賊やまばゆき魚は店になし    林翔

    6月 茶摘み唄ひたすられや摘みゐつつ   藤田湘子

    7月 部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす 能村登四郎

    8月 霧騒ぎいたましきまで鮭群れつ    沢田緑生

    9月 夕潮の紺や紫紺や夏果てぬ      藤田湘子③

   10月 逝く汝に萬葉の露みなはしれ     能村登四郎③

   11月 さつまいもあなめでたさや飽くまでは 林翔②

   12月 十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ     水谷晴光②

                      (〇数字は年間通算巻頭回数)


 いずれも若い作家であるが、特に23年の巻頭作家が注目される。この時巻頭を多くとった藤田,能村,林、水谷が正にその後、馬酔木若手の中心となっているからである。その後、藤田,能村,林は馬酔木三羽烏と称されるが、実は当時は、水谷を加えた四羽烏というのが相応しかったかもしれない。彼らは25年に馬酔木同人に推挙されている(もう一人、澤田も)。いずれにしろ三人を目標に以後続々と若手が活躍し始めるのである。

 さてこの若い作家、特に藤田,能村,林が活躍し始める契機となったのが、22年8月に秋櫻子の発案で発足した馬酔木新人会であり、篠田悌二郎の指導の下、藤田湘子、秋野弘、宮城二郎(波郷の戦後の馬酔木復帰のキーパーソン)等が参加、若干遅れて能村登四郎、林翔を加えて、馬酔木新人育成の中心機関となり、機関誌「新樹」を創刊するのである。そしてこの新人会の中心となったのが誰あろう藤田湘子であった。【注2】

 この時の経緯を水原秋櫻子が次のように書いている。


 「(水原秋桜子が疎開していた八王子へ来て泊まって帰った藤田湘子と一緒に)東京へ出て、秋野弘君の勤務先(三菱)へ立寄り、それから私は病院へ藤田君は篠田君の所へ行つた。この頃は、篠田君の所か秋野君の所かへ寄ると、たいてい若い人が集つてゐるし、居ないでも消息はよくわかる。我々もむかし最も作句に熱中したときには、たいていどこかに集ってゐたものだ。いままで新樹集の作者達には、かうした交わりがなかつたのである。近頃急にこのやうな状態になつたのは、やはり一つの機運といふべきで、俳句の向上する道程であると思ふ。私はこの人達十五六人の会を作つて、新人会と名づけ、その薫陶を篠田君に託した。そこで毎月一回後楽園に集り、お互いに厳しい俳句の批評をするのであるが、会員の二三人にあつたとき、感想をきいて見ると、とても怖い感じの会であるといふので、安心した。怖い感じのする会で、十分鍛錬されなければ、俳句など巧くなるわけがないからである。」(「江山無尽」馬酔木22年10月)

 

ちなみに私は、林翔からこんな手紙をもらっている。


 「登四郎・翔の両人が初めて新人会に出席したのは昭和二十二年十二月です。出席は悌二郎先生以下十三名、悌二郎は出句せず、各自二句の出句でした。宮城了子が紅一点で、夫の二郎も出席していましたが、二郎は病状の悪化で翌年から来られなくなり、了子も翌年は一度しか出席していません。十二月の会では小生が最高点で悌二郎特選にも入りましたが句集に入れていません。新人会の例会場は丸ビル8Fの一室で、新人会員五十嵐三更が三菱地所の社員だったから借りられたのだと思います。 

 新年だけは会場を変えるならわしで、二十三年一月は涵徳亭、二十四年一月は八王子の喜雨亭(秋櫻子宅)でした。涵徳亭での句会では秋野弘が最高点、登四郎が二位、しかし登四郎は「ぬば玉」の句が悌二郎選に入ったわけです。二月は登四郎が断然トップで、悌二郎特選三句を独り占めしました。三月は湘子が最高点、この月から民郎も出席するようになりました。民郎は鎌倉の草間研究会(正式な名称かどうか知りませんが)に出ていたので新人会へはやや遅れて入ったのです(草間研究会は時彦氏の厳父草間時光の指導する会でした。時光は馬酔木同人、後の鎌倉市長です)。女流は宮城了子が来なくなってから馬場移公子が紅一点となりました。小林広子、山本貞子を挟んで、殿村敏子派女流の五番目、二十四年一月からの入会です。」(昭和59年4月5日付筑紫磐井宛)


 少し分かりにくいので、整理してみよう。昭和22年12月は丸ビル8階の会議室で13名で新人会が開かれた、話題の宮城二郎も出席していたが、おそらく最後の新人会への出席であったろう。翌昭和23年1月は後楽園の涵徳亭で句会が開かれ、ぬばたまの句が悌二郎選に入る。文面からすると悌二郎「特選」であったかどうかは分からない。

 このように、新人会に関しては、やや遅れてであるが上記のような秋桜子の薦めもあり遅れて参加する。しかし、林翔によれば、秋野弘から能村登四郎、林翔の両氏の参加を認めるという通知が届いたものの、林翔が登四郎にそれを伝えてもうれしそうな顔をしなかったという。秋野らとは微妙な関係があったことは後ほど述べたい。


【注1】私の原論文から引いたが、その後、安居正浩「「一句十年」の真実 ―能村登四郎小論―」(「沖」平成22年12月号より転載)で「最初に誌上に句が出るのは『馬酔木』昭和十三年十一月号である(筆者調べ)。

 秋櫻子選の新樹集に

    佐渡野呂松人形浄瑠璃

   秋燈に伏せる傀儡のいのち見つ     市川市 能村登四郎

であるから、初投句は昭和十四年の夏ではなく十三年の後半には投句を始めていたことになる。」と述べているので訂正する。


【注2】安居論文は、若手作家の馬酔木における登四郎の成績についても言及しており、「湘子の入会(昭和十八年十月号)から登四郎の巻頭(昭和二十三年三月号)までの登四郎と湘子の成績を比較してみると、

 〇句 登四郎 十二回  湘子  七回  (出征による欠詠も含む)

 一句 登四郎 十三回  湘子 十四回

 二句 登四郎 十六回  湘子 十一回

 三句 登四郎  二回  湘子  二回

 四句 登四郎  二回  湘子  十回

 五句 登四郎  〇回  湘子  一回

となる。四句以上の成績から見ても明らかなように湘子の方が上回っていた。特に昭和二十二年には登四郎がほとんど一、二句であったのに対し、湘子は上位に定着し昭和二十二年四月号では巻頭も取っている。このように句数においても、順位においても大きな差があった。」とされている。

 実は、昭和22年1月25日に高雄山麓高橋家で馬酔木の復刊記念俳句大会が開かれていた。この時、湘子は「風音のやめば来てゐし落葉掻」の句で秋桜子特選となった。その直後感興に任せて宿で句会を開き、その時の成果が湘子の馬酔木初巻頭句となる次の句であった(22年4月)。


雪しろき奥嶺があげし二日月  湘子

夕月や雪あかりして雑木山

月落ちて川瀬に小田の雪あかり


資料 能村登四郎初期作品データ。

(制作年月の次の〇数字は馬酔木集の席次。*は下位作品)


刈田のなか池ありあをき空を置く(23・1*)

高槻のそのたかさよりしぐれくる

茶の咲くをうながす晴とちらす雨


咳なかば何か言はれしききもらす(23・2➁)

かがみゐし人のしごとの野火となる

潮くみてあす初漁の船きよむ

ななくさの蓬のみ萌え葛飾野


ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23・3➀)

雪といふほどもなきもの松過ぎに

雪天の西うす青し雪はれむ

佗助やおどろきもなく明けくるゝ


雪の戸にけはひして人のおとなへる(23・4⑧)

匆々ときさらぎゆくや風の中

蓋ものに春寒の香のさくら餅

松の間に初花となり咲きにけり


弥生尽追ひ着せられて羽織るもの(23・5➁)

人いゆく柴山かげや春まつり

さく花に忙しききのふ無為のけふ

さくら鯛秤りさだまるまでのいろ


うすうすとわが春愁に飢もあり(23・6⑥)

春靄に見つめてをりし灯を消さる

摘むものにことば欠かねど蕗生ひし

畑すみに萌えいですでに紫蘇のいろ


部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23・7➀)

たよりあふ目をみなもちて梅雨の家

梅雨の傘抱きて映画に酔ひがたき

藺の花の水にも空のくもりあり


老残のことつたはらず業平忌(23・8③)

黴の香のほのかなる書を手ばなしぬ

白麻の着くづれてゐて人したし

白靴のしろさをたもち得てもどる


露はしり我にあかるき今日きたる(23・9⑥)

かぼちや咲き貧しさがかく睦まする・

かぼちやかく豊かになりて我貧し

病める子に蚊ばしらくづす風いでよ。


長男急逝

逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23・10①)

供華の中に汝がはぐくみしあさがほも

汝と父母と秋雲よりもへだつもの

かつて次男も失ひければ

秋虹のかなたに睦べ吾子ふたり


白露の朝にはじまる言葉佳し(23・11③)

白露や子を抱き幸のすべてなる

秋草やすがり得ざりし人の情

日とよぶにはかなきひかり萩にあり


露幾顆散り惜しむとも吾子はあらず(23・12⑤)

鶏頭やきはまるものに世の爛れ

朝寒や一事が俄破と起きさする

林翔に

貧しさも倖も秋の灯も似たる。


咳了へてほのかにぞ来る人の息(24・1⓸)

わが胸のいつふくらむや寒雀

枯芭蕉どんづまりより始めんと

炭は火となるにいつまで迷ひゐる


霜ばしら怒りは内に燻ゆらすな(24・2③)

手袋やこの手でなせし幾不善

またけふの暮色に染まる風邪の床

かけ上る眼に冬樫の枝岐る

  殿村兎糸子氏を新人会に迎えて

朱を刷きて寒最中なる返り花


凩と言へどそれぞれものの音(24・3⑨)

遠凧となりてあやふき影すわる

水洟を感じてよりの言弱る

冬百舌の裂帛にわが虚を衝かる


老梅を愛して物を卑しまず(24・4⑤)

新雪の今日を画して為す事あり

卒業生言なくをりて息ゆたか

風邪熱を押して言葉にかざりなき


●戦前作品

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(14・2*)

枯山の星するどくてひとつなる(15・12*)

蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(16・11*)

盆のものなべてはしろくただよへり

寝返ればふたつとなりぬ遠蛙(18・6*)

四五枚のいつも雪解のおくるる田(19・4*)

いつの間にみてゐし雲や春の雲(19・5*)

朝は子とゐし緑陰や人のゐる(19・8*)

ひとりゐる蘆刈に鳰もひとつゐる(20・1*)


●戦後作品(受験子・教師俳句)

受験子の髪刈りて来し目のうるみ(24・4特別作品)

しづかにも受験待つ子の咀嚼音

あぢさゐの褪せて教師に週めぐる(24・8⑦)

氷菓もつ生徒と逢へりともに避け(24・9⑫)

長靴に腰埋め野分の老教師(26・4馬酔木コンクール受賞)

教師やめしそのあと知らず芙蓉の実