スピリット・オブ・ハイク
ロンドンにあるアートギャラリーから、俳句をテーマとした美術展への参加を誘われた。現代アートの作家たちが「俳句の精神(spirit of haiku)」をテーマに美術作品を作る。英国の詩人三人と僕の計四人がその作品に呼応するhaikuを作って会場で音声で流す、という趣向だ。この美術展のことは後日に詳述したいが、僕はイギリス人のキュレーターが語ったその言葉が気になった。「俳句の精神」を問われて、僕はそれをイギリス人たちにうまく説明できるだろうか。
そう思うと、別の出来事が頭をよぎった。最近あるhaikuの会に参加した際に、イギリス人の講師がこう語った。
「日本人は、我々西洋人がhaikuのルールと思うものをどんどん破ってますよ」
本家と分家の奇妙な転倒とも思える言い方が面白かったが、俳句は常に進化すべき、というのが彼の真意のようだ。文化や言語ごとに俳句の差異はあっていいとの含意もあるかも知れない。だが、日本人が忘れた俳句の精神をhaikuが守っている事実を示すとも受け止めうる。
前回の連載で「比喩」をめぐる俳句とhaikuの違いに触れたが、haikuの中には江戸期の俳句理念を忠実に踏襲しようとする人々が確かにいる。一方でこれも以前に触れた「scifai句」などのようにhaiku形式を借りた自由奔放な展開もいくつもある。そんな中で、果たしてそれらに普遍するスピリット・オブ・ハイクはあるのか。仮にそれがあるとして、それを正しく体現するのは、日本人の俳句か、それとも西洋人のhaikuか。
ちなみに、例えば英国俳句協会から届く会報には、haikuで目指す日本的美の理念として次のものが記される。真(makoto)、侘び寂び(wabi-sabi)、幽玄(yūgen)、写生(shasei)。しかしこれらの多くは、今の日本の俳人の目からは古めかしいものとも見える。
「写生」もここで列挙されるが、冷静に振り返るべきは、俳句の近代化の歴史だ。言うまでもないが、子規による俳句・短歌の近代化は、西洋絵画に由来する「写生(スケッチ)」の導入によって進められたとされる。あるいは「前衛俳句」にしても「前衛」という用語そのものが西洋美術から来ることも自明だ。子規以降の俳句史には、べったりと西洋美術由来の概念が塗り付けられている。
そんな俳句が西洋に逆輸入されhaikuとして隆盛しているが、そこで多くの西洋人が学ぼうとするのは芭蕉など江戸期の俳人が中心だ。一方の僕は、むしろ西洋美術由来の「写生」や「前衛」の影響を強く受けて育ってきた。であるなら、そんな西洋の俳人や美術家たちに僕が語れるスピリット・オブ・ハイクが本当にあるのか? その美術展に取り組みながら、その問いを何度も自問してみた。
※写真はKate Paulさん提供
(『海原』2023年12月号より転載)