東京空襲アフガン廃墟ニューヨーク
東京空襲は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期にアメリカ合衆国により行われた、東京都区部に対するM69焼夷弾などの焼夷弾を用いた大規模な戦略爆撃の総称。
アフガニスタンの紛争が1978年から断続的に続いている。アメリカの同時多発テロで世界的に知られているオサマ・ビン・ラディンなどが関わっているとされたのがアフガニスタン紛争。
ニューヨークは、アメリカ合衆国の最大都市。
この三つの名詞だけがこの俳句では、ぶつかり合うように配置される。
この異質なようで何処かでリンクしながら何処と何処の戦争や紛争の暴力装置が俳句の中に存在しているのだろうか。
そのことに想像力の翼を飛翔させる俳人たちでなければ、戦争を止める文学の力などありえないのではないか。
大井恒行さんの俳句の創意工夫も未開拓地への一歩だ。それを繋ぎ合わせる想像力を私たち俳句鑑賞者にも求められている。
神風に「逢ったら泣くでしょ、兄さんも」
泣く朝日「一瞬一生」軍事郵便
「自分では死ねんのよのぉ」真昼の凍(エニ)河(セイ)
神風となりし戦没者たちと生存者たちの繋ぎ目は、いまだ癒えることのない終わらない戦争体験者の心の傷なのかもしれない。
朝日は泣いている。軍事郵便の召集令状の赤紙を手にした一瞬もその一生の行方も朝日が泣くこのめぐるめく地球の自転の眩暈のように。
自分ではなかなか死ぬことができない。エニセイの凍河の真昼に凍結された記憶よ。喚起せよ。
木の 針金の ブリキの脚で 笑う人形
木製の針金で繋ぎ合わせられたブリキの人形は笑いながらこちらにやって来る。
人形の笑い声は、物悲しさも含む嘲笑のようにも聴こえる。
人間の絶望がやがて人形のブリキの脚をギクシャクと歩行させながら人類の蜃気楼の道のようにも見えてくる。
「君が代」に起立不起立昭和の日
弱いオトコがまず消えるウイズコロナ
寒キャベツ包む紙面に「格差」文字
虐待の拍手を蜜のように吸う
かたちないものもくずれるないの春
君が代の押し付けに起立と不起立の卒業式のざわつきを呼ぶ。
私は、不起立でしたが、同級生の中には、当惑を隠せない者たちも居た。
そんな昭和の日を私は、思い出した。
コロナ禍に合言葉のように「ウイズコロナ」が連呼される中、弱いオトコたちが真っ先に消え去る刹那よ。
買い出しで寒キャベツを買うと新聞紙で包む其のゴシップの見出し記事の「格差」の文字が浮き立っている。世の中の歪は、キャベツの自転にも浮彫となる。
虐待を包み隠す家の外では、女こどもの悲鳴さえ拍手のようで部外者の蝶らは、他人事の人の不幸が蜜の味のようで無関心の名の基に吸い続けるのだろうか。
地球の異変が騒がれている昨今で天災も人災もぐちゃぐちゃの形のないものでさえ崩壊させてしまう春の地震がある。平仮名表記で春を浮き立たせた秀句だ。
生涯に書かざる言葉あふれ 秋
俳句表現の一言一句をひとつひとつ辞書を引いて俳句の物語を丁寧に読み解いていく。
俳句鑑賞者以上に作家は、表現者としての表現の暴風圏内にあるのかもしれない。
どうやったら私たち表現者は、生涯に表現しきれない言葉の玉手箱の溢れるほどの思いを表現できるというのだろうか。其処は、もう秋である。
句集鑑賞でだいぶ躊躇してしまった今句集の表現ぎりぎりの挑戦状のような思いをひしひしと感じていた。
私は、いくども人生のどんな道からも俳句を詠み続けようとする先輩俳人たちの俳句表現をまざまざと目撃している。
私にとって俳句は生きる糧だ。
私は、そんな思いを抱かせる俳人・大井恒行の生きる道を句集から見出したかった。
最後に共鳴句をいただきます。
明るい尾花につながる星や黒い骨
匹如(するす)身(み)のすめらの民や雪月花
万歳の手のどこまでも夏の花
しらぬ間や生死連なる飛花落花
桜前線つぎつぎこころの戒厳令