・喜怒哀楽も刻んで
苦瓜を見ると、まさにうちなぁんちゅそのものだなと思う
酷暑に耐え、低賃金で働いて働いて、子ども達を懸命に育て
かつての紅顔の美少年も美少女も苦瓜のようにゴツゴツした顔になる。
人生の喜怒哀楽が純真な心を否応なく擦れさせ、出てくる言葉は甘くない。
だが、その言葉には何とも言えない滋味がある。
あまりにも緑色をした苦瓜、その苦みを越えた先にある爽やかさ
そんなわけで私は苦瓜が好きだし、うちなぁんちゅが好きである。
・帰るべき国を問う岬の燐寸擦る
辺戸岬のすぐ先の与論島との間に引かれた北緯27度線は復帰前沖縄と大和を隔てる民族分断のラインだった。
それでも沖縄県民は熱烈に祖国復帰を望み、沖縄を我々に返せと歌い篝火を焚き与論島の同胞と心を通わせた。
こうして祖国復帰がなってから51年、しかし、今でも沖縄には異民族の基地が存在し沖縄は沖縄人に返されていない。
あの熱烈な祖国復帰への渇望は、うちなぁんちゅの片思いだったのか?力強い篝火の火は燐寸の束の間の光だったのだろうか?
それはヤマトンチュの裏切りなのか?うちなぁんちゅに悪い所があったのか?
そも、そんな事を考える事すら、別れた恋人の思い出を数えるような虚しい事なのか?
今、岬に立って燐寸を擦っても未来は見えない。ただ暗闇に海鳴りが吸い込まれるだけである。
・ひと言を悔い出す深夜チューリップ
私は昨年、母親を亡くした。亡くなる2年前までは母親と同居し、足腰が弱くなった母の日常生活を助けていた。
母親というのは、子どもを自分の血肉の一部だと思っているから、一切遠慮会釈のないものである。
四十路を過ぎた私を子供のように扱い、上から目線であれこれ口を出し、たまらぬ事に行動を束縛する。
そのうちに私もカチンと来て、最愛の母にキツイ言葉をぶつけてしまう。
そして、母親の寂しそうな悲しそうな顔を見て、いつでも我に返り自己嫌悪する。
私を慈しみ、無制限の愛を与えてくれた母は、そこにはもういないのだ。
チューリップの花咲く花壇の傍を、幼き私の手を引いて歩いてくれた母はもういないのだ。
今度は私が母を愛し慈しまないといけないのに、私はいつまでも母というチューリップの周りを飛び回る蝶だった。
今は後生にいる母に、心の中でゴメンと詫びてみた。