2023年5月12日金曜日

【豊里友行句集『母よ』を読みたい】➀ 豊里友行句集『母よ』書評 伊波一志

  先日、友人・豊里友行から『母よ』の書評の依頼がありました。ただし、僕は俳人でもなく、批評家でもない、沖縄在住のただの写真家です。豊里友行のもうひとつの顔である写真家仲間の一感想文として、お手柔らかに読んでいただけると幸いです。形式も何もわからない門外漢なので、僕が好きな句を5つ選びそれぞれ僕が勝手に想像・解釈した内容になっていますので、あしからず。


1.「戦争は嫌っ これでもくらえ 春だ」

 この俳句は、明らかに豊里の一貫して戦争を憎み、それに対して強く反発する気持ちを表明した句です。冒頭の「戦争は嫌っ」という言葉は、豊里の強い主張が示唆されていると感じました。また。続く「これでもくらえ」という言葉は、戦争に対して反発するだけではなく、戦争という敵に対して絶対に屈しないぞ、という豊里の意思表明にも感じられます。最後の「春だ」という言葉は、戦争や破壊とは対極のフレーズですが、このフレーズのおかげで、戦争に対する嫌悪感だけではなく、平和や希望を求める気持ちも同時に抱いている豊里を表しているのだと感じました。この句は全体的に豊里が戦争に対する憎しみや反発を表現しつつ、それに対してみずからが立ち向かう意思を示す力強い作品です。僕は、豊里と知り合って15,6年になりますが、写真家としての豊里の一貫した思想を言葉にしたような俳句だと感じました。


2.「蛍烏賊の我らスマートフォンの海」

 この俳句は、自然界と現代の技術社会が対比された一節です。蛍烏賊が自然の海で生きる様子を描き、そこに「我らスマートフォンの海」というフレーズが挿入され、現代社会の便利なツールであるスマートフォンが自然界の海のように広がっていることを暗示しているのでしょう。現代社会に欠かせないツールと自然界の生き物とのギャップが表現された、おもしろい句だと思います。ちなみに、昨年『世界のウチナーンチュ大会』という那覇市の球場で開催されたイベントで写真撮影をする豊里を見かけたことがあります。その日世界中から沖縄に帰ってきたウチナーンチュたちが暗い客席でスマホのライトを振る無数の光の情景が深く心に刻まれたのですが、もしかしたら豊里も同じ情景から着想したのかもしれません。


3.「ういるす籠りをまたぐ夜の巨人」

 この俳句は、非常にイメージ力豊かな作品で、不思議な情景を想起させます。

冒頭の「ういるす籠りをまたぐ」という言葉は、現代社会が直面しているウィルスや病気といった課題に対して、人々がそれを乗り越え、立ち向かう姿勢を表現していると解釈しました。そして続く「夜の巨人」という言葉が何を指しているのかは明確には分かりませんが、何か巨大な存在感を暗示しているのでしょう。単純明快な絵が想起できないことで、俳句の世界に複数のレイヤーを感じさせる独特の空気感が生まれていると思います。また、「ういるす籠りをまたぐ夜の巨人」という言葉自体が非常にリズミカルで、言葉の響きが美しく、癖になる感覚が、いいと思います。音韻美が強調された作品といっていいのかもしれません。


4.「蹴る海の胎児はジュゴン寄せる波」

 この俳句は、基本的には海の美しさや、そこに生きる生物たちの姿を表現した作品だと思います。「蹴る海の胎児」という表現からは、海の波が胎児のように躍動している様子がイメージできました。また「胎児」という言葉からは、海が命を育む母なる存在であることが示唆されています。そのあと「ジュゴン寄せる波」という言葉が続きます。ジュゴンは絶滅危惧種の海洋哺乳類で、世界的にも貴重な存在とされていますが、その生息域の北限が沖縄だとされています。そして、僕らウチナーンチュが「ジュゴン」と聞いて、すぐに想起するのは、辺野古の海。辺野古の海は、新基地建設のために埋め立てが始まっていて、少し前まではジュゴンの親子が目撃された美しい海です。おそらく豊里は、この句で、ジュゴンのいるような美しい海を基地建設で埋め立てられる理不尽さ・怒り・せつなさ・むなしさ等複合的な感情を込めていると思います。


5.「修羅に成り逸れてひやしんす」

 この句は、句集の中でもっとも好きな句ですが、解釈がとてもむずかしいと感じました。

 まず、「修羅」という言葉の意味ですが、一般的な、果てしない争いや激しい怒りなどのたとえとして「修羅」を使うと、続く「成り逸れて」とつながりにくいと思いました。なんとなくですが、僕が直観的に思ったのは、豊里のいう「修羅」は宮沢賢治の「おれはひとりの修羅なのだ」の「修羅」なのではないかと。では、賢治がそんな「修羅」だと自分を意識するのは、どのような意味合いにおいてなのか。「仏教の教えによれば、世界は六道界からなっている。修羅の世界は餓鬼や地獄よりは上であるが、天上界はもとより人間界よりも下に位置する。だから修羅であることは、まだ人間にもなりきれない未熟な存在なのだ。」賢治は、「修羅」をこのような意味合いでとらえていたそう。もっと、具体的にいうと、賢治が捕らえていた「修羅」の姿とは、煩悩にさいなまれている姿であったようです。怒り、憎しみ、嫉妬といった感情から脱しきることが出来ずに、つねに焦燥感に駆られていた賢治は、自分の今の姿がそうだと感じていたとのこと。豊里は、賢治のいう、まだ人間にもなりきれない未熟な存在としての「修羅」にすら成れていない、と表現しているのではないでしょうか。そして続く「ひやしんす」。豊里がいうひやしんすは何色か分かりませんが、僕は紫色のひやしんすではないかと考えてみました。紫色のひやしんすの花言葉は、「悲しみ」「悲哀」でした。何かこの句は、俳人・写真家としての豊里の生きざまや志の高さを示すとてもいい句だと思います。

------

伊波一志(いは・かずし)
1969年沖縄生まれ。写真家。
サイト:ihakazushi.com