2023年5月26日金曜日

【渡部有紀子句集『山羊の乳』を読みたい】④ 生真面目さで以って見つけ出す  上野犀行

読初の文字なき本を絵解きせり

人日の赤子に手相らしきもの

 渡部有紀子さんの第一句集『山羊の乳』の冒頭の二句である。新年最初に手にする本は、ヒントもなく自分で絵解きして読み進めなければいけない。そして、赤子の小さな手にある皺だか筋だかは、手相なのか何だかわからない。答えらしきものがあるのかもしれないが、今現在はわからない。自ら見つけ出さないといけない。


 有紀子さんは大変真面目な方である。いや、生真面目という言葉の方が当てはまる。何事にも正面から勤勉に取り組む方だ。

 すると普通だと、取っつきにくい人だと思うかもしれない。しかしそれは大きな間違い。一度お会いしてみれば、生真面目だからこその面白さがある方であることがわかる。そして句座を共にすれば、こちらが恐縮してしまうほどの、大いに気遣いの方であることがわかる。

 この印象は、句集全体を貫いていた。

千代紙をきつちり畳み雛の帯

土のこと水のこと聞き苗を買ふ

千本の影を整へ針祀る

 雛人形の帯は、千代紙を折りまげて作り、しかと締める。文字通り、有紀子さんの「きつちり」とした性格が出ている。苗を買うときも、店にいろいろと尋ねる。もしかしたら、店員も深い関心に圧倒されているかもしれない。針供養の様子を目にすると、千本の針が整然と影を成していることに着目する。ひんやりとした空気が伝わって来る。

 そんな有紀子さんだからこそ、次のようなユニークな句も詠むことができる。

月蝕を蜜柑二つで説明す

星の砂呉るる銀行涼新た

軽軽と大蛇運ばれ里祭

 お子様に対してだろうか、月蝕の仕組みを丁寧に話している。それを蜜柑二つ並べてというところが、端から見ているといかにも変なものである。南の島で銀行に立ち寄ったら、星の砂を呉れた。こんなにありがたいサービスを、一般的には堅物のイメージである銀行員がしてくれている。秋の収穫を感謝する祭が里で執り行われている。厳かなものであろうかと思っていたら、大蛇を運んでいる。他所から来た人はびっくりだが、地元の人は何事もなく当たり前に眺めている。

 これらの句には何とも言えない俳諧味がある。「緊張と緩和」が効いており、その落差からおかしさがにじみ出ている。しかし、有紀子さんは読者を笑わせようなどとは毛頭思っていない。生真面目に物を見詰めていたら、自然とそうなったのだ。あざとさがないので、読み手は心地良く有紀子さんの世界に入り込める。


永き日の逆さに覗く児の奥歯

人形に絵本読む児や春ともし

二階より既に水着の子が来る

スケートの輪を抜けてより母探す

 吾子俳句においても、有紀子節は健在である。真剣に子育てに向き合っているからこその、そこはかとない違和がある。

 歯の生え具合を確かめるために、子の口の中を覗く。よく考えると、母子が顔を逆さまに向き合っているのは、異様である。子が人形に絵本を読んでやっているのも、かわいらしいが、冷静なれば不思議なことである。海水浴では、海岸にある海の家で着替えればよい。しかし、民宿を出る前にその二階で、すでに子は水着一枚になっている。子のたくましさが伝わって来るが、相当面白い光景である。スケートで一心に滑っていたら、いつの間にか母を見失っていた。そうした子を、母は傍らでそっと見守っている。すぐに声を掛けて子を安心させはしないところが、有紀子さんの生真面目さであり、一句をドラマチックなものにしている。〈入学の子に見えてゐて遠き母 福永耕ニ〉と同じように、成長過程にある子の不安や孤独を描き出すことに成功している。

 お子様がミッション系の学校に通っていらっしゃることからか、キリスト教に関する句も多い。しかし、聖書や教義の内容を大上段に振りかざしたものではない。あくまで写生に徹し物を描き、その結果として予期せぬ諧謔があふれ出すという手法は、一般の生活詠と変わらない。

水鳥の身動きもせず弥撒の朝

骨太き魚を取分け復活祭

真白なる藁を敷入れ降誕祭

降誕祭十指を立てて麵麭を割る

 水鳥が身動きひとつしないような神聖な朝に始まる弥撒がある。かと思えば、復活祭の弥撒が終わると、神父も信者も、うれしそうに大きな魚を一緒につついている。クリスマスでは、真っ白な藁を敷いて飾りつけをしている。清廉な精神を思わせる。一方で、どうしても人はパンを口にして、生きていかなければならない。クリスマスの夜も、指に力を入れパンを割って、自らの腹を満たす。

 復活祭やクリスマスの弥撒に神聖な気持で与っていたら、人間の業の深さを考えるに至った。有紀子さんは極めて真剣なのであるが、読み手は、やはりその真剣さと人間臭さの隔たりに、どこかくすぐられるのである。それでいて「人はパンのみにて生きるにあらず」という聖書の言葉の意味を、深く考えさせられたりもするのである。


夢に色なくて墨絵の宝船

毛糸編む膝にあふるる大河編む

朝焼や桶の底打つ山羊の乳

蟻塚の奥千万の蟻眠る

秋澄むや手毬の中の銀の鈴

 生真面目に物を読んで来た結果、有紀子さんの俳句は深化していった。右記の俳句は、それらの一つの到達点である。どの句にも真剣さを起源としたおかしみがあり、更にそこから発展してやさしさを醸し出している。そして、どこか世の中や人生の真理を衝いた作品を成すに至っている。

 夢がモノクロである人がいる。そして宝船も墨で描かれている。初夢も宝船も白黒であるからこそ、これからの未来も地に足のついたものであってほしいという想いが伝わって来る。ただ単に毛糸を編んでいるのではない。これから始まる大河のような物語を編み込んでいる。どんなドラマになるかは、膝の上にある毛糸だけが知っている。山羊の乳が力強く桶へ絞られる。先に紹介した句と同様、この句も人間が物を口にしていかなければならないことを詠んでいる。朝焼という季語が、そういう人間の逃れられない在り方を、明るく大きく受け止めている。地上に出ている元気なものはごくわずか。実は蟻塚の奥には、億千万の蟻が身体を休めている。人間社会を語っているかのようである。労働に疲れた者を見守る姿は、聖母マリアのようである。手毬の中の鈴は見えない。しかしその涼し気な音から、その銀の色を想像させてくれる。澄んだ秋空が読者の前に広がってゆく。


 ずっと生真面目に生き、ずっと物をじっと見つめて来た。その結果、作品からくっきりとした景が、かがやきを以って浮かび上がってくる。それは科学者が冷徹に物事を観察していった結果、世界に予め組み込まれていた答えの一端を見つけ出し、光を当てて人々に差し出していることと同じことのように思われる。


梟や手術の糸の溶くる夜も

 前書に「乳癌手術無事終る」とある。その時は、有紀子さんも気が気ではなかっただろう。それでも、有紀子さんは術前も、術後も変わらずに俳句を詠んでいる。どんなことがあっても、生真面目に人生に向き合い、俳句に向き合ってきた。

 そういう人を、俳句の神は必ず護ってくれる。有紀子さんの今現在の元気な姿、そして俳壇での多くの活躍と実績が、それを物語っている。これも、本当は予め決められていたことなのだろう。有紀子さんは、自身の無欲で生真面目な努力により、自然と天からいわば「ご褒美」を授かったのである。


鳥渡る櫂に祈りの飾紐

 この句のように、有紀子さんはこれからも浮足立つことなく、生真面目に、櫂を漕いでいくだろう。渡り鳥とともに、少しずつ着実に、俳句の大海を進んで行くだろう。櫂に付けられた飾紐が、これからの有紀子さんの道を静かに祈っている。


【執筆者プロフィール】
上野犀行(うえの・さいごう)
1972年静岡県生まれ、神奈川県横浜市育ち。2015年「田」入会。水田光雄主宰に師事。
2021年第一句集『イマジン』。俳人協会会員。