焼酎讃歌
芋に麦、米、蕎麦、トマト、栗、ピーマン。何の話かと言えば焼酎である。焼酎は夏の季語。プレミアムのものを除けば、比較的お手頃な値段ですぐに酔える。カロリーも低く、痛風を恐れることもない。サワーにすれば飲み口もすっきり。焼酎ブームはまだまだ続くだろう。私は芋か麦。お湯割りかロック。緑茶で割るのもよい。最近上京していないので疎いのだが、十年ほど前は「お茶割り」と頼むと東京ではウーロンハイが出てきた。静岡では緑茶割りである。たいがい冷たい。寒いときなどはメニューになくとも、頼めばあたたきお茶割りが飲める。あたたかいお茶割りはよほどに飲まなければ、悪酔いもしないし、次の日もつらくない。好む所以である。もっと普及してほしいものだ。焼酎の個性を楽しむならば、お湯の方がよいけれど。
焼酎は個性が強い。或る人には「臭い」と思えても、別の人には「佳い香り」ということがよくある。味の好みもいろいろ。ただしクセを抑えた焼酎は、それこそ味気ない。人とて同じこと。クセのある人は、そのクセが魅力である。そこにはまるか、毛嫌いするか。はまってしまえば、あとはズブズブ底なし沼。
焼酎の一銘柄を偏愛す 中島和昭
悦楽の底なし沼にはまっている。なにせ「偏愛」なのだから。そのくらいに愛するということは、よほどクセの強い焼酎なのだろう。個性が強くなればそこまではまることはない。別の似たような酒に浮気してしまう。「きみじゃなくちゃダメなんだ。きみしか愛せない。愛せないんだよ」という状態。そんな焼酎に出逢えたことは、まさに酒飲みの本望であり、至福である。他の酒では満足できない体になってしまったことは少々残念かもしれないが。
米の香の球磨焼酎を愛し酌む 上村占魚
「愛し」がいい。偏愛とまで行かずとも、「愛し」がやさしい。句から、米の香りがふわっと鼻をくすぐる。「球磨焼酎」と限定したことにも愛を感じる。香りを楽しむためにもぜひロックでいただきたい。旨さは鼻腔にも口中にも。
汗垂れて彼の飲む焼酎豚の肝臓(きも) 石田波郷
夏の酒場。冷房ではなく、開けっ放しの戸口からの風。壁に据え付けられた扇風機。あと、カウンター下の棚に何枚かの団扇。焼き場の熱気もあって、みな汗を垂らしつつ。焼酎をグイ。この焼酎は酎ハイか。あえてお湯割りか。九州の酒飲みは一年をとおしてお湯割りと聞いたことがある。この状況にお湯割り。熱気過剰、汗が垂れるのも当然。そして肴は豚のレバー。モツ焼きではなく「豚の肝臓」と限定しているので、私はあえてレバ刺しと考えたい。お湯割りにレバ刺し、活気ある下町のパワーを感じる。ビールではこうはいかない。焼酎の力強さと個性のなせるわざ。
市場者らし焼酎の飲みつぷり 上野白南風
市場で働く方々と酌み交わしたことがないので、体験からの具体像は描けないが、わざわざ「飲みつぷり」と言っているぐらいだから、よほど豪快なのだろう。市場の活気を思い浮かべれば、ちびちび啜りつつというのはイメージしがたい。グイっと。グイグイっと。濃いめの水割りを喉に流しながら、乱暴であたたかい言葉の応酬。多少うるさくもあるが、見ているこちらの酒も旨くなる。影響を受け過ぎて、自分までグイグイ呑むのは禁物。お酒はあくまでも自分のペースで。
火の国の麦焼酎に酔ひたるよ 大橋敦子
「火の国」と言えば熊本。本場九州の麦焼酎。なんとも旨そうだ。「火の国の麦焼酎」という存在感に「に酔ひたるよ」という軽いフレーズが相まって一句をなしている。火の国の「火」と焼酎の「焼」により、麦を炒ったこうばしい香りまでただよってくるようだ。ちなみに焼酎の「焼」は酒を焼く、つまり蒸留をさす。火の国の麦焼酎。今すぐにでも味わいたい。
馬刺うまか肥後焼酎の冷やうまか 鷹羽狩行
今度の肴は馬刺しである。それはそれはうまかろうねえ。最高じゃろねえ。方言を用いることで、対象への親しみが伝わる。高級な店ではなく、常連さんが突然「あんた、どこから来たね」と声をかけてくるような大衆酒場を思い浮かべた。「焼酎の冷や」とはロックのことであろうか。それとも焼酎自体を冷やしてストレートか。それも旨そうだ。焼酎のイメージにも合う。くいくい飲んで、楽しい一夜。なにとぞ飲み過ぎには皆様、ご注意を。
焼酎に死の渕見ゆるまで酔ふか 小林康治
危ない、危ない。そこまで呑んじゃダメですよ。なんとも凄味のある一句。ドキっとするような、中七下五の強さと鋭さを受け止められるのはやはり焼酎だからだろう。試しに他の酒の名を入れても、この凄味には到底敵わない。
甘藷焼酎過去には触れぬ男達 塩田藪柑子
「過去には触れぬ」をどう解釈するかで、凄味も出るし、明るさも出るだろう。私は明るく読みたい。だって「甘藷焼酎」だもの。暗い過去には触れず、明るく今を楽しく。今の自分を偽るのではない。それに触れぬのも酒の席の礼儀。寺山修司の詩に
ふりむくな
ふりむくな
後ろには夢がない
というフレーズもありますし。
焼酎は庶民の酒である。「下町のナポレオン」という有名なキャッチコピーもある。ただ、その庶民の中でも立身出世とはあまり関係のない方々の酒というイメージがあるようだ。そのような句をざっと紹介したい。
焼酎が好きで出世もせざりけり 中丸英一
焼酎に慣れし左遷の島教師 夏井やすを
焼酎や出世にうとき顔ならぶ 臼井治文
私、焼酎好きですが、何か。まあまあ、落ち込まず。こんな句もある。
焼酎に甘んじ人生愉快なり 細見しゆこう
甘んじている訳ではないけれど、人生愉快なら、まあいいか。それだからこそ、酒も旨い。いいじゃないのよ、幸せならば。さあ、焼酎をもう一杯。
桃の日や焼酎飲んで産院へ 田川飛旅子
いやいやダメダメ、飲んじゃあ。三月三日の腿の節句に産院へ。遂にわが子の誕生。わざわざ「桃の日や」と言っているのだから、おそらく女の子。待望。だが緊張する。落ち着け、落ち着け。どうしよう。そうだ。焼酎を一杯。グイと。ふう。よし、肝が据わった。さあ、行くぞ。なんだかミニコントのようになってしまったが、男という生き物の一特性が垣間見える。酒のにおいがしても、なにとぞおゆるしを。
焼鳥焼酎露西亜文学に育まる 瀧春一
新宿の名店ぼるがであろうか。歴史を感じさせる、蔦に覆われた外観。多くの文学者などが集い、今も意気軒昂なにぎわい。俳句仲間に何度か連れて行ってもらった。「ボルガ」はロシア西部の大河の名。ぼるがの思い出は確かに、大河のごとき悠久の中に今も流れている。じゅんさいを食べた記憶が不思議なくらいに頭にのこっている。
形見にと湯守の呉れし蛇焼酎 小原山籟
形見と言われても。焼酎にマムシ等の蛇を漬け込んだあれである。湯守とは湯本や湯屋の番人。どういう関係なのだろうか。形見を渡されるぐらいだから、浅からぬ仲だろう。
マムシ焼酎を口にしたことが一度だけある。学生時代によく通った居酒屋でのこと。閉店時間が近づき、残っているのは私を含め常連グループが一組だけ。大将が「おい」と呼ぶ。「そろそろ閉店だよ」ということか。振り向く。「俺の元気の素を見るかい」。何だろう。「これだよ」と取り出したものに驚いた。薄い琥珀色の液体の中に蛇がいる。思わず全員で「えっ!」。「仕事が終わったらショットグラスで一日一杯。これが元気の素さ」。テレビ等では見たことはあったが、現物ははじめて。しげしげと眺めていると「飲むかい?」と。好奇心。こういうことを「毒を喰らわば皿までも」と言うのか。少し違う気がする。とはいえ、こんな機会は滅多にない。一杯いただく。鼻を近づけると、鼻腔をかきむしるかのようなにおい。口にする。飲んだのではなく、少し口が触れたぐらい。うぉぉぉぉ。なんという個性の強さ。思わず膝の力がガクっと抜けた。ショットグラスとはいえ、これを一杯飲み干すには勇気と度胸が足りなかった。あれ以来、蛇焼酎は口にしていないし、お目にもかかっていない。卒業してからお店にも伺っていない。今も蛇焼酎片手にお元気だろうか。学生たちに親しまれる、明るくやさしい、べらんめえ調の大将であり、お店だった。あの焼酎を形見に。いや、貰ってもやっぱり困るなあ。
焼酎のたゞたゞ憎し父酔へば 菖蒲あや
私の父は料理人である。母と二人で料理屋を営んでいる。へそ曲がりで気難しく、いつも無口だ。酒が入ると怒りやすく、喧嘩っ早くなる。最近酒量が減ったが、私が幼い頃には大酒を飲んでいた。父が苦手だった。酔った勢いで母につらくあたるときなどは、子どもながら心底腹が立った。料理人としての腕前はわが父ながら一流である。しかし父・夫としては、わが父ながら三流であった。父は最初にビールを一瓶。そのあとはずっと焼酎。そのため、夜の父からはいつも焼酎のにおいがした。そのにおいが嫌いだった。今となっては「生きることや愛することに不器用な人なんだ」と思っている。苦手でもなくなった。一般的な父と子の関係である。ただあのにおいが憎かった。焼酎を「いい香り♪」と言っている現在の自分が信じられない。信じられないながら実際にいい香りであり、すこぶる旨いのだから仕方がない。実家にて父と同じ焼酎を酌み交わすこともある。会話はほとんどないが、それが男親と息子の普通の姿と思っているのだが、いかがだろうか。
なんだかしんみりしてしまった。締めに力強い一句を。
黍焼酎売れずば飲んで減らしけり 依田明倫
「売れずば」という豪快なフレーズ。呆気にとられてしまう。そうか。飲んじゃえばいいんだ!いやいやいや、売らなきゃ。この句のパワーに黍焼酎がよく似合っている。クセがあるほど愛してしまう。さてさて、ちょっと夜の街に消えるとするか。
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