・風花や島の突端まで歩く
・蓬来や海ひろびろと明けきたる
自選第一句集、『櫛買ひに』の初句と最終句である。
渡邉美保氏の句作は、「うみ」を詠むことから始まり、その二十年は、「海」を詠むことで中締めを迎えたと言っていい。
誰でも、その表現のかたちは別にして、アドレサンスを、自分の原風景を「うたう」ことから、意識的に言葉を紡ぎ始める。
氏の原風景は天草の「海」だったから、それを詠うことから句作が始まったのは自然なことだった。
最初の章「ポインセチア」には、初句から始まって、みずみずしい感性で(「あとがき」によればこれの句作がなされたのは六十代!である)、「うみ」を詠った句が選ばれている。
・潮風のふきつさらしに藪椿
・雛あられ食うべ波音聞いてゐる
そして「海」の句、
・早春の海の匂いのハンバーガー
・明易の海を見てゐる帰郷かな
けれど、この二句で「海」の句は封印されるのである、勿論、選から外された句の中には「海」を詠んだ句がたくさんあったはずである、しかしこの章には取られなかった。
二番目の章「アンモナイト」にも、化石のように大事な記憶としてしまい込まれた「うみ」の香りがする句はあるものの、「海」の句は無い。
・鳥たちに波くつがへる彼岸かな
・足裏の砂崩れゆく盆の波
林誠司氏に「初挑戦で受賞した。 これは驚くべきことではないか。」と書かしめた「俳壇賞」の対象となった三十句からなる三番目の章「けむり茸」にも、当然のごとく「海」の句は無い。
断念すること、それも自分が最も愛おしいと思うものを断ち切ることによってしか、ひとは成熟することはできない、表現の世界においては、より厳しくそのことが問われる、だからそんな、人の推量をはるかに越えた苦しい句作の試みの中から生み出されたであろうこの章の句には、硬質な響き、冷冽な美しさがある。
・骨貝の棘美しく九月来る
・冬ざるるもの青鷺の飾り羽
・薄氷にひび老木に刀傷
自身の俳句世界の成熟を確かめ得たのだろうか、氏は四番目の章「夕凪」で、父との、天草との交歓を詠い、「うみ」を詠う、封印は解かれたのである。
・白さるすべり浮桟橋に父を待つ
・天草行きフェリー発着所のざぼん
以前よりもっと自由に「海」が詠われる。
・海風に影の明るき石蕗の花
・短日の川にひとすぢ海の色
・ぽつぺんやちちははの海凪わたる
第六番目の章「櫛買ひに」。
・海鳴りや布団の中にある昔
・海鳴りの暗きへ鬼をやらひけり
ここでは、「海」が映像ではなく、「海鳴り」の音として詠われている、氏のなかで「海」の存在は薄らいだということだろうか、けれど、僕たちは、映像から音を感じるよりもっと、音のほうから様々な映像を喚起されるのではないか、「うみ」への思いは、より深まり、強くなっている、そんなふうにも思える。
そして最終章「炭酸水」の最終句は、冒頭に既に引用した、
・蓬来や海ひろびろと明けきたる
「うみ」と「海」をめぐって『櫛買ひに』の世界を、僕なりに、ずいぶん自分勝手に読んできた、でも書き足りないことがもう少し残っている。
ふけとしこ氏が「序」で、「身辺些事を掬い上げ、細やかに景を詠んでいたところへ、ファンタジックな要素が入ってくるようになった。幻想というか、虚の要素を取り込むというか、物語性というか、世界を拡げてきた・・・。」と書かれている、ことについてである。
これまで触れなかった唯一の章「うかうかと」の三十一句すべてに、僕は点を入れたいのである、「あとがき」で渡邉氏は書いている、「なんでもないことにはっとする瞬間。普段、何気なく見ている景色の中(あるいは心の中)にある小さな変化や違和感、不思議を見つけていきたいと思っています」。
氏の俳句世界の真骨頂はここにある、と僕は考えている、「ファンタジックな要素、幻想、虚の要素、物語性」、これらすべては、「平凡な日常生活を繰り返す日々」の中にあるので、それ以外のどこにもない、と氏は熟知している、そして、そんなことは俳句を始めたときに分かっていたことなのだ。
僕がこの句集を読み進めながら、最初に立ち止まった句が「ポインセチア」のなかにある。
・朝より毛虫あやめて水打って
二千二十一年七月三十日
0 件のコメント:
コメントを投稿