澤田和弥は復活する
筑紫磐井
最新刊の『シリーズ自句自解Ⅱベスト100 津久井紀代』(二〇二一年三月ふらんす堂刊)に次のような自句自解を見つけた。
ゆりの木で逢ふ約束を修司の忌
新宿御苑に大きなゆりの木がある。有馬先生、上井正司さんたちと吟行したときに出来た。ちょうど五月であった。若い時は誰もが一度は寺山修司に憧れる。三十五歳で命を絶った澤田和弥も修司に憧れ、多くの修司忌の俳句を残した。もがきながらついに修司に追いつくことが出来ず死という道を選んだのである。惜しい若者を失ってしまった。一周忌に澤田和弥論を発表した。
これを読んで改めて澤田和弥は自死してしまったのだなと思い返した。
『革命前夜』
澤田和弥は昭和五十五年生まれ、平成二十七年の五月に三十五歳で亡くなっている。
早稲田大学俳句研究会を経て、平成十八年に「天為」に入会し、二十五年に「天為」新人賞も取っているが、澤田が俳壇で知られるようになったのは同年の七月に第一句集『革命前夜』を上梓してからだろうと思う。序文を書いた有馬朗人は、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」ると言っているが、こんなにも早く愛弟子がなくなるとは考えてもいなかったに違いない。公私ともに面倒を見ていただけに哀惜の思いは強い。「私は和弥君が寺山修司のような力強さや野性、そして徹底した前衛的な強い精神力を持って活躍してくれることを切に願っている」は果たされないままに終わったのである。
翻って、『革命前夜』は若々しい澤田を遺憾なく表している。章構成は「青龍」「修司忌」「朱雀」「白虎」「玄武」となっているが、四季の象徴に修司忌を加えたことが澤田の思いをよく表している。寺山忌は四季そのものであるのだ。「修司忌」の章は句集として圧巻であろうが、思い入れが過ぎて現在の伝統俳句の世界では余り受け入れられなかった。
革命が死語となりゆく修司の忌
外つ国のガラスの目玉修司の忌
廃屋に王様の椅子修司の忌
むしろ『革命前夜』は、澤田が亡くなった後で再評価が始まる。その最初のものは、冒頭で言及する津久井紀代が一周忌に発表した澤田和弥論「こころが折れた日――澤田和弥を悼む」(「天為」二十八年五月号)である。ここで津久井は、「『革命前夜』を書いた時、既に和弥は「こころが折れる日」を予感していた」「三十五年間という人生の挨拶を『革命前夜』の日にすでに行っている」と述べる。こうした一節を読むと、澤田がキリストだとすれば、津久井はイエス復活の証人であるマグダラのマリアのようだと思う。今にしてみれば生前に取り上げられた句よりは、こうして没後回想される句の方が『革命前夜』の代表句となる。
若葉風死もまた文学でありぬ
東京に見捨てられたる日のバナナ
蝉たちのこなごなといふ終はり方
秋めくやいつもきれいな霊柩車
外套よ何も言はずに逝くんじやねえ
マフラーは明るく生きるために巻く
津久井紀代は、「彼の根底に「いじめられた」ことがあった。文学の中で必死にもがいたが、そこから抜けだすことが出来ないまま自らの命を自分の手で断った。」と述べている。その根拠に次のような句が挙げられている。
プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ
或る人に嫌はれてゐる聖五月
澤田自身にも次のような回想があるというからこれは間違っていない。
「中学に入ってとにかくいじめられた。同級生、後輩、教師、私の卒業アルバムは落書きだらけである。・・・いじめられることはそれほどまでに苦しい。死という選択肢を私は敢えて否定しない。社会にでてからもいじめに遭った。」
「(修司の)最晩年の二年間を特集した番組が片田舎の我が家のテレビに流されたのは私が中学生の頃のこと。寺山の死からすでに十一年の歳月が流れていた。ぼんやりとテレビを見ていた私は不意に我を忘れた、亡我。寺山と出会った。それは両親の言葉を忠実に守る十四歳のいじめられっ子にはあまりにも衝撃的であった。いや。衝撃そのものだった。早速、地元の本屋へ行った。『寺山修司青春集』。生まれて初めて、血の流れる生きた「詩」と対面した。
とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩
私の詩を汚すものは憎きいじめっ子たち。中学三年間のいじめに耐えてきた力の源に、この歌が一助をなしていたことは確かに否めない。中学の時の「想像という名の現実」。いつも寺山に教えられているばかりだ。彼に憧れながら、私は彼にはなれない。一体これから先、何ができるのだろうか。俳句はそれを教えてくれるのか。わからないことが多すぎる」。
寺山への畏敬は、「天為」と別に、平成二十七年一月に遠藤若狭男が創刊した「若狭」に参加していることにも現われている。遠藤は早稲田俳句研究会の指導を行い、澤田と同じように寺山を素材とした作品を膨大に発表している讃美者だ。澤田は、最晩年の僅かな期間であるが「若狭」に「俳句実験室 寺山修司」の連載を行っている。澤田のライフワークということが出来た。
『革命前夜』以後
『革命前夜』が上梓されたのち交流の始まった澤田から、私に生前句稿が送られて来ている。『革命前夜』(二十五年刊)収録の後、角川俳句賞等に応募して落選した次のような句群である。『革命前夜』は二十二年までの作品を収録しているというから、その後の四年間のこれらの作品は未完の『革命前夜・その後』に収録されるべき作品であった。
もちろん「天為」「若狭」に発表された句もあるが、澤田らしさを発揮するのは特別作品だからこれで十分であろう。
①「還る」五〇句(二十三年)
➁「草原の映写機」五〇句(二十五年)
③「ふらんど」五〇句(二十六年)
④第四回芝不器男俳句新人賞に無題の百句(二十六年)
『革命前夜』後の澤田和弥を語るのに決して少ない量ではない。『革命前夜』で「これが僕です。僕のすべてです。澤田和弥です。」といった、「これ」以後の澤田和弥――新しい「これ」も我々は完璧に語ることが出来る。なぜなら新しい「これ」以後を澤田和弥がもう作ることはないからだ。「これ」及び新しい「これ」以外に澤田和弥はないのである。澤田の全てがここで語られる。
これらの中で、自叙伝風な句がしばしば見えるようになる。これらの主語は、私(澤田)と読みたくなる。
亀出でて無能無能とわれに鳴く
春夕焼骨壺のごと眠りたし
春夕焼文藝上の死は早し
精神病んで杖つき歩く花ざかり
復職はしますが春の夢ですが
花満ちて故郷は呪ふべき処
女見る目なしさくらは咲けばよし
下萌や小野妹子はひきこもる
こうした中で、かつて「革命が死語となりゆく修司の忌」と詠んでいた革命に寄せていた期待は潰えてゆく。
多喜二忌や革命の灯は遠き国
革命を捨てし祖国よ花菜雨
そうした一方で、二十五~六年にかけて死の句が極端に多くなる。『革命前夜』の予告は、着実に実現してゆくのである。
梅が香よすでに故人となる未来
雪割や死にたき人がここにもゐる
春昼は春の昼なり嗚呼死にたし
生ききるはずもなきわたしが蟻の中
こほろぎ鳴け鳴け此岸はつまらなかつた
寒の夜の翼たたみて自死の人
生くる子が首吊る子へとなりし冬
これらは本当の死の直前の句である。死の後はどのようになってゆくのであろうか。それを的確に語っている最後の句がある。死によって、澤田は自由になることができた。
毛布一枚わたしは自由である
(「天晴」2号(夏号)2021年6月より転載)
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