(13)引揚げ・帰還
中島さんの復員の話に入る前に、ソ連管理地域の引揚げについての資料を紹介する。
「引揚げと援護三十年の歩み」厚生省刊、第2章 陸海軍の復員及び海外同胞の引揚げ(6)外地部隊の復員処理の概況 「ソ連管理地域」(P.59)によると
ソ連管理地域であった満州、北朝鮮、千島、樺太からの軍人及び軍属及び一般邦人の送還は、連合国軍総司令部とソ連邦対日理事会代表との協定により、他の地域の帰還がほぼ終了した昭和21年12月に至ってやっと開始された。
とある。
引揚げについて「平和祈念展示資料館展示資料」(筆者書き写し2018年3月18日)には、
終戦時、約355万人の軍人・軍属の復員は、終戦直後から連合国の管理の下で始まったが、満州・朝鮮北部のソ連の管理地域では、多くの人がシベリアを始めとするソ連領内やモンンゴル地域などの酷寒の地へ連行され強制労働に従事させられたため、他の地域に比べて復員が遅くなった。戦争が終わり暫くすると、シベリアやモンゴル等の地域で多くの抑留者が過酷な状況におかれているという情報が日本に届き抑留者の家族から、帰還促進運動が始められ、各地での集会やデモ行進、統治国アメリカへの請願が行われ、1946(昭和21)年12月から抑留者の帰国が始まった。(「平和祈念展示資料館展示資料」)
「引揚げと援護三十年の歩み」厚生省刊、第2章 陸海軍の復員及び海外同胞の引揚げの「昭和25年の引揚げ」(P.98)には、
4月22日引揚船信濃丸が到着した日、タス通信は、ソ連政府の発表として、「日本人捕虜の送還はこれをもって完了した。なおソ連側に残っている捕虜は、戦犯容疑者1487名と病気療養中9名である。」と伝えた。しかし、当時、連合国軍総司令部が公表していた在ソ同胞の数と比較して30万人以上の食い違いがあり、一日も早い帰還を待ちわびていた留守家族に強い衝撃を与えた。この問題については、後期集団引揚げに記述することとするが、ソ連本土に抑留されていた海外同胞の前期引揚げは多くの問題を残し、いわゆる後期引揚げの開始までここに中断されることとなった。(「引揚げと援護30年の歩み」から 厚生省)
※タス通信:かつてのソビエト連邦国営通信社(d.hatena.ne.jp から)中島さんの話に戻ると、1948(昭和23)年6月11日、ソ連軍将校から「ユータカ・ナカジマ」と名前を呼ばれた。本当かどうか発表したソ連兵に確かめると「プラウダ(真実である)」と言われた。
復員船英彦丸のタラップを昇る。ソ連軍将校や日本人アクチブの連中が「反動」の者を引きずり下ろそうと目を光らせている。いつ呼び戻されて、再びシベリア奥地に逆送されるとも限らないと中島さんは思ったという。
中島さんの「我が青春の軌跡 絵画集」から
船が出航し三海里が過ぎるとソ連人将校も下船し港へ戻った。船尾のブリッジの階段に五~六人の日本軍将校が駆け上がり日の丸の旗を掲げ、「帰国したら祖国の復興のため頑張ろう。」という内容の檄を飛ばした。乗っていたアクチブの連中も大人しくなった。東舞鶴港に到着し、はしけに乗り換えて桟橋に向かう。取材の中で、「戦場体験放映保存の会」主催の〝戦場体験者と出会える茶話会”に参加したのだが、その資料に幅員船での吊し上げについての記述があるので、体験者である依田さんの許可を得て、資料の中の「1946年6月幅員船で」を引用する。
依田さんは、1924年(大正13年9月生まれ)1944(昭和19)年12月25日に独立混成第一旅団独立歩兵第74大隊に衛生兵として入営されたという。
船は夕方出航し朝博多に着く予定だった。
「今夜共産主義の学習組の中から7人の人間を袋叩きにしようという噂がある。7番目に名前があがっているから気をつけろ」と親しい友人が教えてくれた。夜になると実際にその順番で呼び出しが始まった。数十分ごとにグループの配下の者が呼び出しにくる。実際に7番目に呼ばれた。呼ばれたときちょうど「投げろ」と声がかかって6番目の人間が海に投げられるのをみた。自分も殴られ「投げろ」と声がかかったがリーダーの側近で「こいつは衛生兵で世話になった者も多いから勘弁してやれ」と言う者があり、リーダーもあっさり「そうかそれならばやめよう」と言って戻ることができた。戻ると心配していた学習組の仲間たちが「あとの6人は戻ってこない。よかったな~」と喜んでくれた。やった者もやられた者も全員敗戦前に中国の捕虜になっていた45人ほどのメンバー。殺されたメンバーは中国語が得意な者が多く、学習組の中で中国側に交渉の窓口として選ばれていた。実際には待遇改善に尽力していたが学習に参加しなかったグループにはねたまれていたのだと思う。
帰還船の中で起こった「吊し上げ」による悲劇である。
このようにして、日本海に消えていった人たち(乗船時の人数と上陸時の人数が合わない)のことを、「日本海名簿」として言い伝えられているという。
(14)シベリア帰りは赤
シベリア帰りは赤と呼ばれた。
1948年から1949年(昭和23~24年)にかけて、ソ連の思想教育はピークを迎えていたようだ。
「引揚げと援護三十年の歩み」厚生省刊 第2章 陸海軍の復員及び海外同胞の引揚げ (6)外地部隊の復員処理の概況には、昭和二十四年の引き上げについてP.98にこう書かれている。
これらの引揚者は、これまでのソ連からの引揚者とは全くその様相を異にしていた。すなわち引揚船中において船長や船員行動を共にしない同僚を吊し上げるなどの争乱事件をおこし、舞鶴入港後も船内に居座り上陸を拒否し、中には滞船116時間に及ぶものもあった。上陸にあたっては「天皇島敵前上陸」などと叫び、革命歌を合唱、引き上げ踊りを行い、全く引揚業務に協力しなかった。(略)
引き上げ者がすみやかに、かつ秩序正しく帰郷できるようにするために
「引揚者の秩序保持に関する政令を公布し、国及び地方公共団体の引揚業務の円滑な遂行を計ることにした。とある。
引き上げ者がすみやかに、かつ秩序正しく帰郷できるようにするために
「引揚者の秩序保持に関する政令を公布し、国及び地方公共団体の引揚業務の円滑な遂行を計ることにした。とある。あいまって、シベリア帰還者への目が厳しくなっていった。
中島さんも「シベリア帰り」ということで、就職に困り長く福島の常磐炭鉱で働いたという。
参考文献
『我が青春の軌跡 絵画集』〝陸軍航空兵科特別幹部候補生第1期生のシベリア抑留記“中島裕著(戦場体験放映保存の会収蔵)
※この本は、中島裕さんの手作りの本で、1冊は中島さんご本人が持ち、1冊は戦場体験放映保存の会収蔵である。
『引揚げと援護三十年の歩み』厚生省刊 昭和52年10月18日
「戦場体験放映保存の会」主催の〝戦場体験者と出会える茶話会”資料「依田
安昌さん1946年6月幅員船で(収録日:2010年8月29日」
「平和祈念展示資料館展示資料」(筆者書き写し2018年3月18日)
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